富豪刑事 筒井康隆 [#表紙(img/表紙.jpg)] [#裏表紙(img/裏表紙.jpg)] 目 次  富豪刑事の囮  密室の富豪刑事  富豪刑事のスティング  ホテルの富豪刑事  筒井康隆氏『富豪刑事』について [#地付き]佐野 洋     装 画 真鍋 博 [#改ページ] [#見出し]  富豪刑事の囮《おとり》 「さて諸君。五億円強奪事件は、強盗罪の時効七年めまでにあと三カ月だ」  でっぷりと肥った特別捜査本部のキャップ福山警視が、メンバーである二十人の刑事を、アルフレッド・ヒッチコックそっくりの顔になかばあきらめの表情を浮べて見まわした。 「投入した捜査員延べ約二十万人、身辺を洗った容疑者約十五万人、作成した捜査資料が資料室のひと部屋にぎっしり」 「それでも、容疑者を四人にまで絞ることができたのですから、これまでの捜査がぜんぜん無駄だったわけではありません」事件発生当時からの捜査員だった狐塚刑事は、つい最近退職した前任キャップのあとを引きついでこの署へやってきたばかりの福山に、挑むような眼を向けた。 「いや。何も無駄とはいっとらんが」  あわてて弁解しようとする福山を無視し、狐塚は尖《とが》った歯を見せて全員を睨《にら》みまわした。 「最も強い手がかりとなったあの特殊な塗料は、専門店からたった五十六人にしか売られていないことがわかった。この五十六人のうち、あの薄いウンコ色の分を買ったやつは」 「ベージュ色でしょう」横から、前歯が欠落してアルフレッド・E・ニューマンみたいな顔になった布引刑事が口をはさんだ。 「ベージュ色の罐《かん》を買ったやつは十八人。この十八人のうち、三人は女性だった。残りは十五人。この十五人のうち」 「二人は老人です」と、布引がいった。 「二人は六十歳以上の老人。残りは十三人。この十二人のうち、オートバイに乗れないやつが三人。残りは十人だ」 「待てまて。その三人を容疑圏内から除外して、本当にいいのか」福山キャップがあわてて訊《たず》ねた。「オートバイを持っておらず、無免許であるにしても、ひとりどこかでこっそり練習して、ということだってある」  狐塚は大っぴらに今さら何をという表情で宙を睨み、福山に向きなおった。「そういう可能性のある者はむろんこの三人の中には含めていません。この三人のうち、二人は小学生。そしてもうひとりは」 「片足です」と、布引が口を出した。 「オートバイに乗るのに不自由な人だ」と、狐塚が言いなおした。「これで残りは十人。そのうちの三人には、確実な現場不在証明がある」  福山キャップは、今度はやや遠慮勝ちに訊ねた。「その三人のアリバイが崩れる可能性は絶対にないのかい」 「ひとりは買った塗料で大学の校舎の壁に資本主義がどうのこうのと書いたため、事件当時は警察にいました。もうひとりは事件の数日前に病死。つまり事件当日は天国にいたことになります」孤塚は真面目な顔で、馬鹿ていねいにそう答えた。「最後のひとりは県警本部の会議に出席中でした。つまりわれわれの署長なんです。当人は庭の兎小屋を塗装するために塗料を買ったと主張しておりますが、このひとのアリバイをもう一度確かめてみますか」  福山は咳《せき》ばらいをした。「いや。それには及ばんだろう」 「残りは七人」と、狐塚が大声でいった。「うち三人は、買った塗料を使っていないことがはっきりしている。むろん、本人たちにはわからないように調べて確かめたのだ。中のひとりは塗料屋で塗料を買った直後、店の前でころんで罐の蓋をとばし、道路に塗料をぶちまけた。大騒ぎになったので、このことは商店街の多くのひとから確認できた。あとのふたりは庭と物置に罐を放置している」 「残りは四人」掛けあいのように布引が横から叫んだ。 「マザー・グースに、テン・リトル・インディアンという歌があったな」くすくす笑いながら猿渡刑事が、隣りの大助にそうささやいた。 「何がおかしい。私語はつつしんでくれ」狐塚が猿渡を睨みつけてから、大助が口にくわえている葉巻を見咎《みとが》め、唇の片端を吊《つ》りあげて犬歯を見せた。「神戸《かんべ》君。この部屋で葉巻はやめてくれ」 「あ。これは失礼」大助はいそいで、まだ一、二センチしか灰になっていない葉巻の火をもみ消し、もみ消す時にぽっきりと中ほどからふたつに折れた葉巻を惜しげもなくアルミの灰皿に捨てた。 「でも狐塚さんだって、さっき煙草を喫っていたじゃないですか」にやにや笑いながら、猿渡がいった。 「紙巻きならいい。しかし葉巻はいかん」狐塚が目を三角にした。「わざわざハバナから取り寄せた一本につき八千五百円の葉巻を横でぷかぷかやられて、仕事の話なんかできるものか」 「そいつは一種の差別だなあ」猿渡が、あいかわらず薄笑いを浮べながら大助を弁護した。 「だって神戸君は、葉巻しか喫わないんだから」  猿渡を睨みつけている狐塚の横から、布引が、これも挑戦的ににやにや笑いながらいった。 「おいおい。刑事ともあろうものが、あまり大っぴらに大富豪の味方をするなよ」 「ははあ。君がそうかね。あの大富豪の神戸喜久右衛門氏の息子さんというのは」福山キャップが小さな眼をまん丸にして大助の方へ身をのり出した。「署長から、話だけは聞いとったが」 「話を続けます」狐塚が、怒鳴るような声を出した。「残りは四人だ」 「四人です。四人」布引が、わざわざ四本指をかざし、全員にうなずきかけた。 「この四人はいずれも事件当日のアリバイがなく、オートバイを持っていて、年齢は二十歳台後半で、モンタージュ写真に、まあ、似ているといえば似ていて、例の塗料を買っている。もっとも、その塗料をすでに使っているかどうかはまだわからない。四人にはそれぞれ尾行がついているが、絶対に当人たちには悟られないようにしている。したがって聞き込みも大っぴらにはやっていず、無論まだ家宅捜査もやっていない」 「しかし、あと三カ月しかないんだよ、君」福山キャップが、ややおどおどした口調で狐塚にいった。「時効にならんうちに、早いことその四人を参考人として調べはじめた方がよくはないのかね。そして家宅捜査を」 「われわれは」狐塚が声を低くした。「犯人が家の中に金を隠していなかった場合のことを考えております。いったん参考人として調べられたら、それ以後はもう常に尾行がついているものと彼らは思うことでしょう。しぜん、今まで以上に、金を隠してある場所へは足を向けようとしなくなります。彼らを警戒させるような調べかたは、もっとさし迫ってからでもいいと思いますが」 「三カ月という時間が、さし迫っているかいないかは考えかた次第だな」  渋い顔でそう呟《つぶや》いた福山に向きなおり、狐塚は軽く一礼した。「もちろんキャップがすぐ彼らを参考人として呼ぶようにご命令なさるのでしたら、わたしとしては何もこの意見を押し通すつもりはないのでありまして」  狐塚や福山からいちばん離れた席にいる猿渡が、疳高《かんだか》い声でいった。「容疑者として調べられていることに気づいた場合、犯人が、金の隠し場所を変えようとするなど、自ら墓穴《ぼけつ》を掘るような行動をとることも考えられますが」  狐塚は肩をそびやかして猿渡に軽蔑《けいべつ》の眼を向けた。「そりゃ、たしかにそういう犯人もいる。しかしこの事件の場合、ああいう犯罪を考えついたほどの頭のいいやつが、そんな馬鹿な行動をとると思うかね」 「ではこのまま、時効ぎりぎりになるまで、彼らの尾行を続けるというのかね」福山キャップは、どうやらそれがいらいらした時の癖らしく、デスクの上に指で無限大の記号を描きながらいった。「ほかになんの手も打たず、ただ尾行だけを続けるというのかね」  狐塚はやや吃《ども》り気味に答えた。「それはまあ、尾行と平行して、彼らに悟られぬ程度に身辺を洗うとか、そういったことはやるべきでありましょうが、基本的にはその」 「あのう」大助が、いちばんドアに近い席でおずおずと片手をあげた。「ひとつ、提案があります」  不機嫌な表情のままで福山はうなずいた。「言ってみたまえ」 「犯人が金を使いはじめれば、隠し場所もわかる筈です。ですから、その四人に金を使わせてみればいいと思います」  福山はまた眼を丸くした。「どうやって」 「わたしが、刑事という身分を隠して彼らと接触します。そして彼らが大金を使わざるを得なくなるような工作をします」大助はのんびりした口調でいった。「これならまあ、尾行と平行してでもやれると思いますが」 「どんな工作をするっていうんだ」狐塚が汚ないものを見る眼で大助を見ながら訊ねた。 「はあ」大助は色白の顔を少し赤くした。「そこまではまだ考えていません。相手次第で臨機応変に」 「そんな出たらめな」布引が大っぴらに苦笑した。「こういう事件ではね、神戸君、きちんとした捜査方針に加えて、明確な計算が必要なんだよ。勘に頼った行きあたりばったりでは、この犯人は罠《わな》にかかっちゃくれないよ」 「いや。なかなかいい方法だと思うな」猿渡が大助に味方しはじめた。「それに、ほかの者ならともかく、神戸君にならその役はうってつけじゃないか」 「どうしてかね」  さっきから興味深げに眼を輝かしはじめていた福山キャップに向きなおり、猿渡は答えた。 「ひとに金を使わせようとするためには、先にこっちが金を使って見せる必要もありますからね。それとなく相手に金を使わせるよう仕向けるには、その方法が一番でしょう。神戸君ならこのメンバーの中でもいちばん若いから、四人とはすぐ親しくなれる筈だし、四人の中の誰かが犯人であった場合、その犯人は、ただ神戸君とつきあっているだけで金を使いたくなる筈です。神戸君がそれを意識していずとも、ただ神戸君の金の使いかたを見ているだけでね」 「君もそうなのかね」あまりにも大っぴらに大助の提案を支持する猿渡へやや警戒の眼を向け、福山がいった。  猿渡はためらわずに答えた。「ぼくには金がありませんからね。はじめからあきらめていますのでそんな気にはなりません。しかし犯人は違います。犯人は、とにかく五億という現金を持っているのですから」 「容疑者と友達になったりして、もし犯人に刑事という身分がばれたらどうする」狐塚が顔をしかめたままでいった。「そんなことになったら取り返しがつかんぞ」  ここぞとばかり、猿渡は大笑いをして見せた。「ばれる筈がないでしょう。キャデラックを乗りまわし、葉巻を半分も喫わずに捨て、十万円以上のライターをいつも置き忘れ、イギリスで誂《あつら》えた仕立ておろしの背広を着たまま雨の中を平気で歩くような刑事がどこにいますか。神戸君がぼろを出すとすれば、それは大富豪としてのぼろを出すわけで、ぼろを出せば出すほど刑事らしくなくなるのです」 「君はいつも、そんなことをするのか」福山キャップはあきれ顔で大助を眺めた。「十万円以上のライターをばらまいたり」 「ばらまくなんて、とんでもない。いつもそんなことばかりしているわけではありません」大助は猿渡をちょっと睨んでから、福山に紅潮した顔を向け、不服そうにそういった。それから、やや苛立《いらだ》たしげに眉間《みけん》へ皺《しわ》を寄せた。「いかがですか、キャップ。ぜひぼくに、容疑者四人との接触をお許し下さい。これは、やってみる価値があると思うのです。うまくいかなかった場合でも、あとの捜査に迷惑をかけるようなへまはやりません。むろん最後まで、刑事という身分は絶対に明かしませんし、あらゆる手段を使ってでも身分がばれないようにするつもりです。なんならぼくの、刑事という職を離れた、私生活における個人的な接触であるということにしていただいてもいいのです」 「まあ、たてまえなどはどうでもよろしい」福山が、大きくうなずいた。「よし。許可しょう。君の私有財産を捜査に使うという点が少し気になるが、私的に関係者と知りあって金を使ってしまうケースだってなくはない。ま、その金のことは一件落着後に捜査費用として請求するかどうかを考えたらいいだろう」 「それは、キャップおひとりの判断で許可なさるわけですね」自分に相談がないのを不満に思う表情をありありと見せ、狐塚がいった。 「そうだ」福山が狐塚を睨み返した。「君たちの誰の意見も聞かず、わたしが許可したのだ」彼は大助に向きなおり、うなずきかけた。「やってよろしい。ただし、ひとこと注意しておく。容疑者は犯人ではなく、犯人に類似したものですらない。どんな人間だって、容疑者である間はすべてまっとうな社会人として扱わねばならん。また、四人とも犯人でない場合も考えられる。くれぐれも彼らには、いかなる意味の迷惑もかけないように。いいね」 「それは大丈夫です」大助は大きくうなずいた。  つりこまれるように一緒にうなずいて、猿渡が口を出した。「むしろその四人は、たいへんいい目を見ることになるでしょうな」 「余計なことは言わんでよろしい」福山がぴしりと、猿渡にいった。「さてと。それじゃその四人の尾行をしたひとに、それぞれ報告して貰おうかな」全員を見まわした。  痩《や》せて眼鏡をかけた、刑事というよりはむしろ学者タイプの鶴岡がゆっくりと身をのり出し、ポケットから手帳をとり出した。「それではまず、わたしから」じろりと大助を見て、彼は咳ばらいをした。「わたしが尾行を担当した男というのは、幡野哲也《はたのてつや》という三十歳の男です。事件発生当時の年齢は、したがって二十三歳。職業はカメラ屋の店員で、母親とふたり、自宅に住んでおります。自宅は父親の代からの一戸建て住宅ですが、実はこの男、自宅に実験室というか工作室というか、まあ、そういった部屋を持っておる。つまり発明狂なんですな。いろんなメカニズムが好きで、オートバイを持っているのもその為《ため》でしょう。頭はたいへんよく、事実、アイディア・コンテストなどには何度も人選しております。正直に申しますと、わたしはこの男が犯人に違いないと思うておる。というのはこの幡野は、カメラ屋の定休日が毎週火曜日なので、火曜日になるといつも自分の発明した品物とか設計図とかを持って特許事務所へ特許申請の手続きをしてもらいに行きます。で、彼と昔からの顔なじみであるこの事務所の男の話では、幡野はいつも、研究するための金がない、金がないとこぼしているそうです。大学時代、この幡野はたいへんな秀才だったそうで、ああいう犯罪は、この男ぐらい頭がよくなくては計画できんとわたしは思うし、金がないと嘆いているのも、強奪した金を大っぴらに使えぬもどかしさで嘆いているのだとわたしは解釈する。その証拠に、時効が迫った今、彼はたいへん浮き浮きしております。他《ほか》にもいろいろとおかしなふしがありますが、それはまあ、なかばはわたしの勘ですから、あとでゆっくり神戸君に教えてやることにしましょう」  ぱたり、と手帳を閉じて鶴岡が椅子の凭《もた》れに背をあずけると、今度は布引が喋《しゃべ》りはじめた。 「わたしが尾行した男も、おおいにあやしいのです。わたしはこの、須田順という二十八歳の男こそ真犯人だと思う。なぜ思うか。この須田は家がたいへん貧乏で、したがって自分も貧乏。アパートでひとり暮しをしております。金持というものを極端に憎んでいて、自分の勤めている建設会社の社長や重役の悪口ばかり言っております。もちろん、そういった悪口を同僚には言えませんので、ではどこで言うかというと、家のすぐ近くの、行きつけの屋台のおでん屋の親爺《おやじ》にいう。この親爺も金持が嫌いなので、話があうわけですな。趣味といえばオートバイですが、これは主として通勤用に使用しているだけです。会社の帰りにその屋台の前にオートバイを停めて一杯飲みながら親爺と喋るという、これもまあ趣味といえば趣味といえるでしょう。一流の大学をいい成績で卒業しているのに、会社ではなんとなく皆から敬遠されていて、不満がつもりつもっているという感じですが、それが爆発しないのは、五億円という現金を握っているからではないかと」  福山キャップが手をあげて制した。「まあ、君の推測はあとで神戸君にゆっくり話してやってくれ。次は誰かね」 「布引君には悪いが、わたしはこの男こそ、間違いなく犯人と睨んでいる」狐塚がにやにや笑いながらいった。「わたしが尾行しているこの男の名前は早川昭彦。年齢は二十七歳で、事件当時は二十歳ということになるからいささか若過ぎる気がせんでもない。しかしこの男、小さい時からなかなか悪賢いやつだった。盗癖もあった。とても子供と思えぬ手口で商店などからしばしば金を盗んだのは、さいわい未成年の時だったから、補導されただけですんだ。したがって前科はない。しかしだな、金が欲しいと思うと矢も楯《たて》もたまらなくなるという性格だったそうだから、高校時代まで盗癖があって、大学に入るなりそれがぴたりとやんだというのがどうも腑《ふ》に落ちんのだ。ま、それはともかく、この男、下宿にひとり住まいで、まともな仕事に一年と落ちついたことがない。現在はぶらぶら遊んでいる。趣味はクレー射撃。鉄砲ぶっぱなして、強奪した金を使えぬいらいらを発散させているのではないかと思うが、これはまあ推測。金がないので狩猟には行かない。そのかわりクレーはなかなかの腕だ。オートバイは、クレー射撃場が郊外にあるのでその行き帰りに使っている。ま、主なところはそのくらいで、神戸君がもっと詳しいことを聞きたければ、あとでいくらでも教えてあげよう」意地悪そうな笑みを浮べ、いささか勿体《もったい》ぶってそういった狐塚は、福山の手前あわててつけ加えた。「わたし個人としてはこういった捜査方法、囮《おとり》というか罠というか、そういうもので犯人をひっかけるのは好きではないが、だからといって方針が決定した以上協力を拒んだりはしない。わたしは尻の穴の狭いのは大嫌いだ。今後もそれぞれの尾行担当者が、神戸君の容疑者接触と平行して尾行を続けることになると思う。わたしは、わかったことがあればすぐ神戸君に教えてやるつもりだから、他の諸君もそうするように」ことさらに度量の広さをひけらかした狐塚は、すぐに牙《きば》を見せた。「それから、神戸君にひとこと訊ねておくが、もし、犯人以外の容疑者が君と交際する過程で金を使った場合、これは時にはずいぶん無理をして金を工面し、それを使うことになると思うが、事件落着後に君個人として、何らかの形で還元してやるんだろうね。いやいや、君に聞いてるんじゃない」また横から何か言いかけた猿渡を、狐塚は睨みつけた。「神戸君に聞いている」 「その通りです」大助はうなずいた。「大金を使わざるを得ないような局面で犯人以外のひとが、おれには金がないからとあきらめてくれれば、これはまあ多少精神的打撃をあたえることになるでしょうが、金銭的には損害をあたえません。しかし中にはそうでないひともいるでしょう。もちろん、その人たちが金欲しさのあまりとり返しのつかぬようなことを仕出かさぬよう、こちらも万全の策を立てます。そして無駄遣いさせた分は必ずとり戻させるようにします。また、そのひとたちの受けた精神的打撃に対しても、何らかの形で」 「豪儀なこった。金を出す話ばかりだな」狐塚が、わざとらしくおどけた。「おれ、こんなおかしな捜査会議、はじめてだよ」 [#挿絵(img/021.jpg)]  大助が、さっと顔を赤らめ、恥ずかしげに俯向《うつむ》いた。  押し出すような全員の笑い声が消えると、今度は猿渡が報告しはじめた。 「坂本一輝。二十九歳です。こいつこそ犯人とわたしは思っています。職業はバーテンですが、大学出です。アパートの一人住まいです。貧乏だからそんなことできるわけがないのに、今に自分の店を持つなどと言っており、開店した時には必ず来てくれなどと、客に確約を求めたりしています。趣味はオートバイとビリヤード。オートバイは自分が勤めているバーの若いホステスなどと郊外へデートする時に使っています。ビリヤードはハスラー級の腕前で、それを知らぬやつをカモにして金をまきあげています。わたしは神戸君がビリヤードのいい腕を持っていることも知っておりますから、この男とは撞球《どうきゅう》場で接触すればうまくいくのではないかと」 「ま、それは神戸君が考えることだ」福山キャップは時計を見ながらそわそわと立ちあがった。「あとは直接神戸君に教えるように。この捜査本部の新本部長としての就任の弁を聞きにマスコミが押しかけてきて待っている。もちろん、今の話は伏せておくつもりだ。では、これで会議を終る」 「と、いうわけなんですがね」テーブルに眼を落し、ぼそぼそとした声で語り終えた大助が、夕食後のコーヒーをぐいと飲み乾《ほ》して、車椅子の父に顔を向けた。「まず最初はその発明狂に近づかなきゃならない。弁理士の事務所で話しかけるのがいちばんいいと思うんですが、何か発明品なり設計図なりを持って行かなきゃなりません。これは要するに彼との話題を作るためだけのものですから、ごく幼稚なものでいい。ところがその幼稚なものを、何も思いつかないんです。今、困っているところです」  大助に背を向け、ガラス戸越しにテラスの彼方《かなた》、数十本の庭園灯に照らし出された庭の奥深そうな樹林へ眼を向けていた神戸喜久右衛門が、車椅子ごと振り返った。彼は皺だらけの顔をさらに歪《ゆが》め、老いの眼を赤く充血させていて、淡褐色の頬へ涙を這《は》わせていた。またか、と思い、大助はちょっとげっそりした。 「お前もとうとう、それほど大切な仕事をまかされるようにまでなってくれたか」喜久右衛門は洟《はな》をすすりあげながら、おろおろ声で喋りはじめた。「わしは今まで、若い時からさんざ悪いことをして金を儲《もう》けてきた。金のためならなんでもするという非情な人間だったのだ。大勢の人間を苦しめ、泣かせ、時には死へさえも追いやった。わしの非道ぶりに心を痛め、お前の母さんまで死んでしまった。それでも平気だった。この歳になるまではな。今になってはじめて、心の平和のためには金なんかなんの役にも立たんことがわかった。しかし、もう遅かった。ある程度以上の金を持ってしまうと、使い道がなくなる上、何かに金を使ってもその金は余分の利息をどっさり背負って戻ってくる。財産はふくれあがる一方だ。わしの罪悪感は、ますますひどくなる」しゃくりあげた。「お前はいい息子だ。刑事になり、正義のために戦ってくれている。わしは嬉しい。やってくれ。おおいに戦ってくれ。その為にはわしの財産を全部使ってしまってくれてもよい。それがわしの罪ほろぼしになるのだ。金を全部使ってしまってくれ」おいおい泣き出した。「お前はわたしの罪を洗い浄《きよ》めてくれ、わしの金を使い果すために神がこの世につかわされた天使のようなものじゃ」わあわあ泣いた。  また発作を起さないかと思って心配し、大助が父親を注視するうち、喜久右衛門は咽喉《のど》に痰《たん》をつめ、涙でむせ返り、白眼を剥《む》いた。 「そら発作だ」大助はあわてて立ちあがり、大声で叫んだ。「鈴江さん。鈴江さん」  隣室に控えていた秘書の鈴江が食堂に駈けこんできて、老人の背中を叩き、水を飲ませた。 「また、泣かせるようなことをおっしゃったのね」大きな黒い瞳《ひとみ》が大助をちょっと睨んだ。 「そっちが勝手に泣いた」と、大助はいった。「仕事の話をしただけなのに」 「最近だんだん発作が多くなってきましたわ」鈴江は介抱しながら、心配そうにかぶりを振った。 「これからは、君も一緒に食事をしてくれた方がいいね」 「あなたがいらっしゃらない時は、いつもお相伴《しょうばん》させていただいております」 「ぼくが一緒の時もだ。介抱のしかたがわからない」  大助のことばに、鈴江は一瞬きらと輝いた眼をすぐ伏せて隠し、つぶやくようにいった。「これ以上家族扱いしていただいたりしたら、勿体なくて罰があたります」 「君はもう、家族みたいなもんだろ」大助は怪訝《けげん》そうな顔をして見せた。「それとも、まだ親父《おやじ》を恨んでるのかい」 「とんでもない」鈴江ははげしくかぶりを振った。「両親が死んだのは病気のせいですわ。喜久看衛門さまがそう思いこんでいらっしゃるような、会社を破産に追いこまれたせいなどではありません。なのに、東京の女子大へやってくださった上、寄宿舎の費用はじめ、使い道に困るほどのお小遣まで毎月。そして卒業後は秘書に」 「あ。もう大丈夫。大丈夫」喜久右衛門が肩を大きく上下させて呼吸しながら、鈴江の手を軽く叩いた。「ありがとう。もう泣きはせぬ。ところで、さっきの話だが」老人は息子に言った。「発作を起している途中で思い出した。二十年ほど前、新製品を開発するための研究所をどこかへ建てて、その後|抛《ほ》ったらかしだ。たしか、あの研究所はその後もずっと続いておる筈なので、鈴江君にあそこの所長を呼んで貰えばよろしい。そもそもあの研究所は、発明したものの金がなくて事業化はおろかパテントもとれないという発明家連中がわしのところへ売り込みに持ちこんだ特許だの実用新案だのの書類がいっぱいあって、そいつが山積みになったため、これの権利を全部買いとって事業化の研究をさせるために設立した研究所なのだ。その後もいろんなものが持ち込まれておる筈なので、その中からまだ出願されていず、公報もされておらん適当なものを持って行けばよろしい」 「助かります」眼を輝かせ、大助はいった。「あまり凝ったものはいらないので、むしろあやしげな発明を二、三いただきましょう。それから家の中のどこかの部屋を研究室に改造したいのですが」 「地下室のいちばん大きな部屋が、それらしくてよいだろう」老人は少し疲れた様子を見せ、力なくいった。「いつの頃だったか、わしの趣味であそこへ六メートルぐらいの錦蛇を二匹放し、飼育人をひとりつけておったことがある。あの錦蛇と飼育人はどうしておるかな。たしか、餌《えさ》をやり続けておった筈だ。もう死んでおると思うが、まさか繁殖してはおるまいな。たしかあの蛇は、ひと腹で百個の卵を」  鈴江が卒倒した。 「あのう、ちょっと教えていただけませんか」弁理士の事務所の待合室で、大助はソファのすぐ隣に腰かけている幡野哲也に小声で話しかけた。「どうしてもわからないことがありまして」 「え。なんですか」設計図らしい細長い紙筒を抱いてうとうとしていた幡野が、やや不機嫌そうに凭れから身を起した。 「あ。これは失礼」大助は発明品らしい紙箱の包みをなでまわしながら、周囲に腰かけて聞き耳を立てている数人の客を気恥ずかしげに見まわした。「じつはその、わたしのこの発明品が、特許に相当するのか、それとも実用新案になるのか、よくわからないもので」  そんなこともわからずにここへ来たのかと言いたげな表情で、幡野は苦笑した。「さあ。それはあなたが、何を発明なさったかによりますが」 「それが、実はこういう」  包みを開こうとする大助を、幡野は眼を丸くして見つめた。「まあちょっとお待ちなさいあなた。その紙箱の包みにはもしかしたらあなたの発明された品物が入っているんじゃないですか」 「そうですが」 「あなたは、こういう特許事務所へ来られるのは、はじめてですか」 「わかりますか」大助は頭を掻《か》いた。「新米発明家ですから、勝手がわからなくて」 「そうでしょうな」あきれ顔でしばらく大助の顔を眺めてから、幡野は大助の耳に口を近づけた。「それにしたって人が良いにも程があるよ。誰だって、まだ出願してもいない発明品はひとの眼から隠そうとするのがあたり前なんだ。君はまた、よりにもよって、どうしてこんな発明狂の勢揃《せいぞろ》いしているまっただ中で、まるでアイディアを盗んでくれといわんばかりに自分の発明品を見せびらかすんだい」 「そういわれれば、たしかにそうだけど」今度は大助が眼を丸くした。「ここにいる人たち、そんなに鵜《う》の目|鷹《たか》の目かい」 「しっ」大助の大声にあわてた幡野が、あさっての方角を見ながらわざとらしい大声でいった。「まあ、特許になるか実用新案になるかという相談は、弁理士にした方がいいでしょうな。そういう相談をするために弁理士がいるんですから」 「しかし、ぼくは君を信用しているから訊ねたんだよ」  真面目な顔でそういう大助をやや持てあまし、幡野はそそくさと立ちあがった。「何も、ぼくを信用するなとは言っていないよ。困った人だね君は。じゃ、ちょっとここを出よう。外で教えてやるよ。そこに喫茶店があるから、コーヒーでも飲もう」 「そりゃ、悪いなあ」 「どうも、君みたいな人を、抛《ほう》っとけない性分《しょうぶん》でね」 「しかし君、面会の順番は」 「なに。秘書が憶えてくれているさ。ぼくは常連で、顔馴染だから」 「だいたい、自分の発明品をひと眼から隠そうとするなんて、もしかしたらそれは、日本の発明家に共通の、たいへん悪い癖じゃないのかい」事務所と同じ通りにある小綺麗《こぎれい》なコーヒー専門店で大助は、向いあって腰かけた幡野にそんな議論を吹きかけていた。「おそらく自分ひとりで儲けようという欲が強すぎて、アイディアを盗まれることを恐れるのだろうけど、それでは何人かが協力してはじめて成功するような大きな発明はできないんじゃないのか」  大助の鼻息にやや辟易《へきえき》しながら、苦味走った芯《しん》の強そうな好男子の幡野が、うなずきながら前髪をかきあげた。「そりゃあまあ、たしかにおっしゃる通りだよ」笑った。「君はたいへんいいひとらしいけど」 「見くびっちゃいけない。君の考えていることぐらいはわかるよ」大助も笑った。「いいひとがいい発明をするとは限らんといいたいんだろう。早速だが、見て貰おうかね」ポケットから折りたたんだ設計図を出し、大助はテーブルの上へ無造作に拡げた。「早くいえば泥棒捕獲装置だ。このドアをこじあけようとすると、ポーチのこの庇《ひさし》から網が落ちてきて、網の四隅は柱の根もとで固定されてしまう。泥棒は逃げられない」  幡野は気の毒そうな薄笑いを見せた。「出願するとすれば実用新案だろうが、これは許可にならないよ」 「どうしてだい」 「第一に、泥棒はたいてい七つ道具を持っている。簡単にナイフで網を破って逃げてしまう。第二に、仮にナイフを持っていない泥棒だったとすれば、何カ月も誰も行かない別荘でこれに捕まったら大変だ。泥棒は餓えて死ぬことになる。また、雪の降る夜や寒い夜などだと、泥棒は朝になるまでに凍死する」 「それは考えたよ。これはそもそも、入ろうとした泥棒をすぐ捕えて警察にひき渡すためのものであって、捕えたまま抛っておくためのものじゃない。第一の点だが、網が落ちると同時にここのブザーが鳴る。したがって、家人とか近所のひとにはすぐに、泥棒が罠にかかったことがわかる。泥棒が網を切ろうとする前にくくってしまえばよろしい。第二に、別荘だとか人里離れた留守宅などではこの装置は役に立たない。したがって、泥棒を死なせてしまうなどといった、過剰防衛になる心配はない」 「どうしてだい」 「この網は、外気に触れてから、つまり落ちてから一時間経てば消滅する」  幡野がわずかに身を浮かして叫んだ。「それこそ特許ものじゃないか」 「あれ。そうかい。そんなもの、すでに誰かが発明しているとばかり思っていたよ」  幡野はしばらくあきれ顔で、今火をつけたばかりの葉巻を惜しげもなく捨てたりする大助に驚きの眼を向けていた。 「ところで、君はなんの発明に凝っているんだい」 「うん。ぼくはその」幡野は急に赤面した。 「ま、つまらない玩具《がんぐ》類なんだが」丸めた設計図をちょっとなでまわしてから、幡野はふと眼を光らせて大助の膝《ひざ》の上の紙箱を指さした。「ところで、その中には今の泥棒捕獲装置の模型が入っているのか」 「ああ。見せよう」  大助が紙箱からとり出した、ポーチの部分の二十分の一程度の模型を、幡野は興味深げに観察した。「ずいぶん念を入れて作ったものだな」 「ドアの隙間に、このナイフの先を突っこんでこじてご覧」 「こうかい」  模型のポーチの庇下から小さな網がさっと落ちてきて、真下の、ナイフを握っている幡野の手を包みこんだ。 「この網がそうかい」 「その網がそうだ」大助はうなずいた。「庇の下に真空包装してある」  幡野は童心にかえったような表情で、眼をきらきらと輝かせた。「ずいぶん精巧だな。素人が見れば玩具《おもちゃ》じみた他愛ない仕掛けと思うだろうが、これがたいへん手間のかかる代物だということは、ぼくにはわかるよ。これに似たものを玩具屋に別注で作らせたら数十万円かかるだろう。君が作ったのか」 「ああ、最近家に工作室を作ってね。こういうものを作る設備ならたいてい揃っている」  幡野は大きく呻《うめ》き、ほとんど身もだえに近い仕草をした。「本当か」 「見に来るかい」  幡野は背すじを伸ばした。「見に行ってもいいのかい」 「いいさ。よければこれからでもおいでよ」 「行く」まるで子供のようにそう叫び、大助の気が変るのを恐れてか、幡野はそそくさと立ちあがった。「弁理士に会うのはいつだっていいんだ」 「ぼくもだ」大助も立ちあがった。「ところで、ぼくは車で来てるんだが」 「ぼくはオートバイだ」 「じゃ、オートバイはそのままにして、ぼくの車に乗って行かないか」 「君は大富豪だったんだね」キャデラックの助手席でひろびろとした神戸邸の庭園を眺め、幡野が茫然としたままでそういった。 「ぼくがじゃない。父がそうなんだ」 「じゃ、君がそうなんだよ」幡野はひとりうなずいた。「ところで、お邸はまだかい」  大助は運転しながら正面に向けて顎《あご》をしゃくった。「見えてきたよ」  ドイツ・ロココ様式の壮大な邸宅を見て、幡野は口を大きくあけた。「ヴェルサイユ宮殿だ」 「まさか」大助は苦笑した。 「あそこに君とお父さんと、それから誰が住んでいるんだい」 「父の秘書とか、メイドとか、執事とか」 「羊を飼っているのか」 「羊じゃない。執事。ああ、これが浜田鈴江さん。さっき話した父の秘書だよ」  玄関ホールで鈴江に紹介された幡野は、彼女の清楚《せいそ》な美しさにどぎまぎした。 「彼女、やっぱり上流家庭の娘さんなんだろうね」  地階へのエレベーターの中でそう訊ねた幡野に、大助はうなずきながら訊《たず》ね返した。「どうしてわかった」 「雰囲気でね」嘆息した。「ぼくなんかとは、人種が違う」 「そんなことはないさ。彼女、婚期を逸しそうなので焦っている。なんならプロポーズしてみたらどうだ」  幡野は夢見るように視線をさまよわせた。「あんなひとと結婚できたら、すばらしいだろうな」 「この部屋がそうだよ。工作室というか、研究室というか」 「もう何を見ても驚くまいと、思ってはいたものの」大助が父の設立した研究所から大いそぎで運びこんだ実験器具、電動工具、化学薬品など、あらゆる材料がぎっしりの地下室へ一歩入るなり、幡野は嘆声を洩らしてそういった。  いくつかの発明品や試作品を夢中になって見はじめた幡野に大助はいった。「よければいつでもここを使ってくれていいんだよ。ぼくも君のような相談相手というか相棒というか、そういう友人がほしかったところだし」  感激のあまりとうとう黙りこんでしまった幡野を、大助はじっと見つめた。この男が悪人である筈はないぞ、と、大助は思った。たとえこの男が五億円強奪事件の真犯人であったとしてもだ。 「おでんをひと皿、頂けますか」  屋台ののれんをわけて入ってきた大助をじろりと見て、胡麻塩頭の親爺が顔を歪め、歩道ぎわに停めてあるキャデラックの方へ顎をしゃくった。「あの車、あんたのかね」 「そうですが」  親爺は屋台の端でコップ酒を飲んでいる須田順とちらり視線を交わしあってから、大助の服装をじろじろと観察した。「あんな外国の高級車を乗りまわしているような人が、どうしておでんなんかを召しあがるのかね。お金持の道楽かね」  のれんの下から車を見て、須田が親爺に教えた。「あれはキャデラックだ」  険のある眼で、親爺が大助にいった。「それはおそらく、われわれには想像もできないほど高い値段の車なんだろうよ。ここはそんなお金持の偉いおかたがくるようなところじゃないぜ」 「ぼくは偉くないよ。金を持っているのは親父で、ぼく自身が金持なんじゃない」大助は腰かけながらそういった。「おでんをくれませんか。腹が減ってるんだ」 「ふん、金持の道楽息子か」 「おいおい。ちょっとひどいぜ」須田がにやにや笑いながらいった。「いくら金持が嫌いでも客は客だ。おでんを食わせてやれよ」 「わしゃ、金持は大嫌いだよ」親爺は力をこめてうなずいた。「ああ。そうとも」皿におでんを盛り、大助の前へ乱暴に置いた。「お前だって、今の今までおれと一緒に金持の悪口を言ってやがった癖に」 「ま、勘弁してやってくれ」須田が大助にうなずきかけ、笑った。「こういう親爺なんだ」 「ええ。気にはしていません」蒟蒻《こんにゃく》を囓《かじ》りながら、大助も笑い返した。 「ほう。そうかね。こっちは気にしてほしいんだがね」親爺は腹立たしげにコップの水を呷《あお》った。 「そりゃあまあ、金持|喧嘩《けんか》せずというからね」須田がとりなすような口調でいった。 「すみません。もうひと皿」大助が空《から》になった皿をさし出した。「うまいですね。ここのおでんは」  親爺が鼻を鳴らし、またおでんを皿に盛った。「お世辞ぬかしやがって。わしゃ、金持は大嫌いだ」  須田がげらげら笑った。「まあ、中にはいいひとだっているんだし」 「なにを」親爺が須田を睨みつけた。「金を持っていることそれ自体が罪悪だなんて言ってやがったのは、どこのどいつだ」 「ほんとは酒を飲みながらの方がうまいんだろうけど」大助は残念そうに、須田のコップ酒を見て言った。「あいにく、車を運転しなきゃならないもので」 「無理して安酒を飲むことはないさ」須田はいった。 「安酒で悪かったな」また親爺が鼻を鳴らした。「こういう酒のうまさなんてものは、金持にはわかりっこねえよ」 「知ってますよ。ぼくだって。それぐらいは」大助は顔を赤くして口を尖《とが》らせた。「すみませんね。蒟蒻を多くして、もうひと皿」 「どうでもいいけど、よく食うね。あんた」親爺がちょっと驚いて大助を見た。「大盛りにしてやってるんだが」 「うまいだろ。ここのおでん」須田がいった。 「うん。うまい。いいところを見つけた。いつもこの道を通るんだ。明日の晩も寄せてもらおう」 「酔狂なこった」親爺が満更でもなさそうな表情で苦笑した。  大助はさらに二皿、おでんの追加を注文した。  いざ勘定をする段になって、大助ははっとした。今日、警察からいったん家に戻ると、一カ月ほど前にイギリスまで飛んで誂《あつら》えた背広が十着ばかり届いていたので、その中の一着と着換えたのだが、その時ポケットへ現金を移しかえるのをうっかり忘れてしまっていたのだ。 「しまった」大助はあちこちのポケットをさぐりながら舌打ちした。「金を忘れてきた」 「なんだって」大助にやや心を許しかけていた様子の親爺が、ぐりぐりと眼を剥いた。「おいあんだ。貧乏人をからかうもんじゃないぜ。あんたみたいな金持が、どうして金を持ってないんだ」腕組みした。「払ってもらうからな」 「もちろん払うさ。しかし」大助はおどおどしながら、あちこちをまさぐり続けた。「ええと。あのう、車にクレジット・カードが置いてあるんだけど、クレジット・カードではいけないかね。扱ってないだろうけど、それを預けとくから」 「聞いたか。クレジット・カードだとよ」親爺は須田にうなずきかけた。「金持はこれだから嫌いなんだ。ひとを馬鹿にしてやがる。屋台のおでん屋でクレジット・カードだとよ」屋台のうしろから出てきた親爺が、大助の傍《そば》にすり寄ってきて凄んだ。「さあ。あんたがクレジット・カードを持つほど信用のある金持だってことは、よくわかったよ。だけどそんな信用、ここじゃ通用しねえんだ。おとなしく金を払わねえと警察を呼ぶぜ」 「それだけは勘弁してくれ」大助はあわてた。「別に、金持だってことをひけらかしてるわけじゃないんだ」ぱっと、顔を輝かせた。「そうだ。車に小切手帳を置いている。小切手帳を持っていたんだ。小切手ならいいだろう」 「小切手だと」噛《か》みつきそうな顔で親爺が叫んだ。「クレジット・カードの次は小切手か。そんな不渡り小切手、誰がほしいもんか。おれたち貧乏人はな、小切手なんてものは、これっぽっちも信用しねえんだ」 「この親爺さん、小切手は全部不渡りだと思ってるのさ」須田は大助にやや気の毒そうな眼を向けた。「いいよいいよ。おれがたてかえてやるから」 「お前さんが払うこたあねえだろう」親爺が驚いて須田に向きなおった。 「いいさ。いくらわれが貧乏人だって、それくらいの金ならたてかえてやれる」須田は大助に笑顔を向けた。「返しにくるのはいつだっていいぜ。おれはいつも今時分、ここで飲んでるから」 「助かりました」浅黒い、ひきしまった顔の須田に感謝の眼を向け、大助はほっとした表情でいった。「明日の晩、必ず返しにきます」 「返しに来やあしねえさ」屋台のうしろにまわりこみながら、親爺が投げやりにそういった。 「金持にとっちゃ、おでんの代金なんて目腐れ金よ。なんとも思わねえさ」  大助が須田に、住所しか印刷していない自分の名刺を渡している間、親爺は須田にまで毒づいた。「ふん。いつも言ってることとは大違いじゃねえか。いざとなりやあ、金持を信用しやがって。ふん。金持に胡麻すりやがって」  車に戻って運転席に落ちついた大助は、助手席のシートの上に抛り出してある紙袋に気がつき、また、あっと思った。今日は給料日だったのだ。給料袋を車のシートに置いたまま、すっかり忘れていたのだった。くすくす笑いながら大助は車を走らせた。やっぱり明日の晩、返しに行くとしよう、大助はそう思った。せっかく偶然の失敗が須田と親しくなれる機会を作ってくれたのだから。 「おそれいりますが、ご一緒させていただけますか」すでに一番射台へ入り、折った水平二連銃に弾丸を装填《そうてん》していた早川昭彦へ、大助は愛用のウインチェスター片手に近づいて行きながら声をかけた。 「ああ、いいよ」ぶっきらぼうにそういった早川は、雑なスタンスのまま射撃姿勢に入り、ほういと叫んだ。  やや透明感のある銃声が周囲の丘にこだまし、プールからとび出したクレーが白と黒の砕片となって散った。シングルも、ダブルも、早川は命中させた。一番射台はいちばん楽な射台とされているが、射手の上手下手がいちばんよくわかる射台でもある。これはおれと互角だな、大助は早川の射《う》ちかたを見て、すぐにそう思った。大助の射撃の腕は警察でも最優秀である。一番射台、二番射台、三番射台、四番射台と、どちらもミスがないままに進み、無表情だった早川の大助を見る眼が次第に光りはじめた。そして彼は五番射台のマークを失敗した。あきらかに、銃がスイングしなかったせいだった。おれを意識しはじめたな、と、大助は思った。早川はリピートし、これは命中した。それからはどちらもミスなしで最後まで進んだ。射撃中、ふたりはずっと無言だった。むろんたてまえとしては、たとえそれが褒めことばであっても射手の負担になるから、余計なことは喋《しゃべ》らないのがマナーであるとされている。しかし、ふたりの間にはそれ以上の緊張があった。互いに相手を好敵手と認めたための緊張だった。 「やるねえ。あんだ」休憩所に戻ると負けん気の強そうな顔をした早川は、ひとつぐらいのミスはまったくひけめと感じていないのだというそぶりをけんめいに示そうとしながらそういった。「ここへくるの、はじめてだろ」 「うん」大助は葉巻に火をつけながらうなずいた。あんたも相当なもんだな。五番のマークは惜しかった」  早川は口惜《くや》しげに唇を歪めた。「あんなことは久し振りだよ」  たいへんな負けず嫌いだぞ、そう思って大助は苦笑した。「あそこはつい、スイングするつもりで突き出しちゃうんだ」なぐさめるように彼はいった。「ヴェテラン泣かせだ」 「もう一度、やるだろう」早川は睨みつけるように大助を見た。 「そうだな」大助はプーラーハウスを見た。  やってきたばかりの四、五人が、さっそく競技を始めようとして射標をプーラーに渡していた。  大助はゆっくりと早川に視線を戻した。「誰もいないところで、ゆっくり勝負をしないか。君みたいな好敵手に出会ったのははじめてだからね」 「しかし、この辺じゃこの射撃場がいちばん空《す》いてるんだぜ」早川が怪訝《けげん》そうな顔つきをした。「あの連中が終ったら、その次はふたりだけでやらせて貰えると思うが」  大助はかぶりを振った。「それにしたって気が散るだろう。いっそのこと、ぼくの家へこないか。庭に、クレー射撃場があるんだ」  早川はびっくりして大助の全身をじろじろと無遠慮に眺めまわし、それからやや警戒するように訊ねた。「家の中にクレー射撃場を持っているような人間が、どうしてわざわざこんなところへ来たんだね」  大助は葉巻を半分以上残して捨て、にやりと笑った。「好敵手を見つけるためさ」 「まったくあんたは、おれの最高の好敵手だよ」坂本一輝が、キューをキュー立てに戻しながら、色白ののっぺりした顔で大助に笑いかけた。「持ち点三百点で一度に二百五十点もつくやつなんて、ざらにはいない」 「五日間でぶっ続けに勝負して、そのうち二日おれを負かしたなんてやつも、ざらにはいないぜ」坂本の下品な口調を真似て、大助も笑い返した。 「おかげでおれは」坂本はくずれた態度で大助に近寄り、耳もとへささやきかけた。「誰もカモれず、五日間無収入よ」 「いやあ。そいつは気がつかなかった。思いことをした」大声でそういってから、大助も坂本の耳に口を寄せた。「おれは自分が金を賭《か》けないものだから、うっかりしていた。じゃあお詫《わ》びに、酒でも奢《おご》るかな」 「そりゃあ、すまないな」坂本はだらしなく、にやにやした。「しかし君、ここ、会員制のクラブだろう」大助につれてこられた上品で静かなクラブの豪華な店内を見まわし、坂本は眼を丸くした。「しかも会員の資格にたいへんきびしい制限を設けているクラブだ。それぐらいはおれにだってわかるよ。だっておれは」さすがにバーテンとは言い兼ねて、坂本は少し口ごもった。「おれもこういう商売だからね」 「ほう」大助はブランデーのソーダ割りを口へ運びながら、知らぬ顔で訊ねた。「君も、こういう店をやっているのかい」 「いや。これほどの店じゃないが、その」坂本は咳払《せきばら》いをし、すぐに顔をあげ、きっとした挑戦的な表情で大助を睨んだ。「いずれは必ず、こういう店を持つつもりだよ。ああ。必ず持つとも」がぶり、と、ブランデーを飲んだ。「その店には、ビリヤード・テーブルも置くつもりだ。外国のクラブみたいにね」酒が入っていささか饒舌《じょうぜつ》になり、坂本は喋り続けた。 「撞球《どうきゅう》場じゃ、グラス片手にというわけにはいかん。警察がうるさいからな」 「それを今すぐやれる方法がある」と、大助はいった。「ぼくの家へくればいいんだ。撞球室の中にホームバーがある。好きな酒を作って飲みながらゲームができるよ」 「君の家に幡野が入りびたっているようだね」捜査本部へ戻ってくるなり、鶴岡刑事が大助にそういった。「奴《やっこ》さん、あいかわらず新式玩具の発明に夢中なのか」 「はかどっているようですね」大助はうなずいた。「最近彼が浮きうきしているのは、特許出願の目途《めど》がついたためです」 「ふん」自分の席で狐塚刑事が、いかにも気に食わぬといった声を出した。「で、何かわかったのかね。金を注ぎこんで奴さんの発明の手助けをしてやっているだけでは、捜査の役には立たんぞ」 「そのほかにわかったことといえば」大助はのんびりした口調でいった。「彼が、父の美人秘書に惚《ほ》れたらしいということと」 「そんなことがわかったってしかたがない」布引刑事が大っぴらに嘲笑《ちょうしょう》した。 「君も誘われて幡野の家へ行ったな」鶴岡がいった。「あの塗料の罐《かん》は、彼の研究室にあったかね」 「見あたりませんでした」大助はかぶりを振った。「きっと、すでに、発明した玩具の塗装に使ってしまったのでしょう」 「犯行に使ったのじゃないというのか」鶴岡が聞き咎《とが》めた。「じゃ君は、幡野が犯人じゃないと」  ちょっとためらってから、大助はうなずいた。「はい」 「結論はまだ、出さん方がいいのじゃないかね」と、福山キャップがいった。 「それどころか神戸君はどうやら、須田も犯人じゃないと思っているようですね」と、布引が福山にそういってから、大助に訊ねた。「奴さんを、この前の日曜日にとうとう君の家へつれて行ったじゃないか。それどころかあんたはついに、おでん屋の親爺《おやじ》にも気に入られてしまったし」 「どうして須田を、犯人じゃないと思うのかね」福山キャップが眉をひそめた。「少し判断が早すぎるようだが」 「いえ。まだ、犯人でないとまでは」大助はあわてた。ただ、正義感がたいへん強い男のようですから」 「そのほかに、何かわかったことは」福山はなかば救いを求めるような眼をして大助を見た。 「はあ。そのほかには、彼もどうやら父の秘書に」 「惚れたというのか」狐塚は苦笑した。「困ったもんだね。お父さんの秘書なんかに容疑者を惚れさせて、どうしようっていうんだ。早川もあんたの家のクレー射撃場へよく行くようだが、まさか早川まで、そのひとに惚れたんじゃないだろうね」 「早川は負けず嫌いなので今のところはなんとも言っていませんが、しかし、どうも惚れたらしい素振りを見せています」 「で、どうなのかね」福山が、ますます苛立《いらだ》った様子でデスクの上に指で無限大の記号を描きはじめた。「連中に金を使わせる目算は立ったのかね」 「それが、今のところ、まだ」大助は頭を掻いた。 「あと二カ月だぞ」福山は呻いた。  猿渡が戻ってきた。「坂本が自分の勤めているバーで、大富豪のパトロンをつかまえたとふいちよう吹聴《ふいちょう》してるよ」彼は笑いながらいった。「神戸君に金を出してもらって、自分の店を持つつもりらしい」  大助は首を傾《かし》げた。「でも、彼はぼくに対しては、すでに自分の店を持っているような口ぶりのままで通しているよ」 「ううむ。そうするとあやしいな」猿渡は福山を横眼でうかがいながら、わざとらしくひとりごちた。「強奪した五億円で自分の店を持った時の言いわけにする気じゃないだろうかね」  鶴岡が考え深げに大助へ質問した。「神戸君。君のお父さんの秘書をしているその女性の名は、ええと」 「鈴江さんです。浜田鈴江さん」 「で、坂本も、その鈴江さんに惚れているのかね」 「ああ。あの男は漁色家だから、誰かれかまわずに色眼を使いますよ」大助は笑った。「もちろん鈴江さんにも。特に彼女のことは、上流家庭の娘だと思っているから、彼の野心をそそるんでしょうね」 「ふうん」鶴岡はまたちょっと考えてから、大助に向きなおった。「四人とも、その鈴江さんに惚れているということを、何かに利用できるんじゃないかね。さっきキャップが言った、彼らに金を使わせる手段にでも」 「そうだ」大助は膝を叩いて立ちあがった。「いい方法を思いつきました」 「ダンス・パーティだと」喜久右衛門は車椅子の上でゆっくりと背をのばした。「それは面白そうだな。この邸でパーティをやるのは何年ぶりだろう」 「やっていただけますか」大助はほっとして表情をゆるめた。 「お前の捜査に役立つのなら、喜んでやろう。ひとつ、豪勢なやつをな」書斎の隅に控えていた鈴江を手で招き、メモをとるよう指で合図してから老人は喋りはじめた。「さっそく招待状の用意をしなさい。取引関係にある会社や銀行の、会長、社長、頭取は全部呼びなさい。大臣を三、四人呼ぼう。外人が混っていれば画白いから大使も五、六人。ああ、もちろんすべて夫人同伴でな。外国からは有名な女優を招こう。今、どういう女優に人気があるのかは知らんが、若くて綺麗《きれい》な女優がよろしいな。活映の社長に電話して、接待役用の若い女優を三、四人|寄越《よこ》すように言いなさい。それから音楽の方は、ロンドン・フィルハーモニーを」 「交響楽はちょっと重すぎます」大助があわてて口をはさんだ。「あそこは楽団員が百数十名だ。そんな大編成の楽団は必要ないでしょう。むしろ五十人ぐらいのストリングスの方が」 「じゃ、そうしよう。マントバーニ、などというのは少し古いかな。今は誰がよいのだ。なにポール・モーリア。ではそれにしなさい。それから料理人はもちろんフランスから呼びなさい。七、八人でいいだろ。余興は魔術がよろしいな。庭ではサーカスをやらせよう。引田天助と木下を呼びなさい。なあに。今からでは間に合わんなどとは言わしゃせんぞ。間に合わさせるのだ。そういうプランでなければわしのパーティではない」  さらに喜久右衛門がプランを喋り続ける間メモし続け、一段落してほっとペンの手を休めた鈴江に、今度は大助がいった。「鈴江さん。あなたにもぜひひと役買ってもらわなきゃならない」 「なに」喜久右衛門がいささかけわしい表情を見せた。「それは、危険な役柄ではないのかね」 「いいえ。喜んで協力させていただきますわ。捜査のお役に立つなら」鈴江が顔を火照らせた。「多少危険であっても」 「危険ではありません」大助は断言した。「容疑者の四人は、すべてあなたに好意を持っているようです。そこで、パーティを利用し彼らに近づいていき、誘惑してほしいのです」 「なに誘惑」喜久右衛門が眼を剥《む》いた。 「まあ。誘惑って、どんな」  大助は計画を彼女に打ちあけた。 「感心できんな」  鈴江の身を案じて不機嫌になった喜久右衛門に、彼女は笑顔を向けた。「大丈夫です。それくらいのことならできますわ。いつまでも小娘ではございません」大助にうなずきかけた。 「つまり、わたしは囮《おとり》なんでしょ」 「そうです。あなたは囮です」美しい囮です、とつけ加えようとして大助はためらい、結局言わないことにした。  別世界だ、と、幡野は思った。これは別世界だ。おれの住んでいる世界とはまったく違った世界なのだ。  庭に向けて二十枚のガラス・ドアが大きく開かれた大ホールをあかあかと照らし出す十二灯のシャンデリア。その下で踊り、笑い、飲み、語りあう着飾った人びと。大ホールからさらに左右へ、奥へと続くいくつもの部屋に飾られた世界の花ばなとテーブルに盛りあげられた珍奇な果物。次つぎと運びこまれる料理とシャンパンのバケット。そして若い男女が散策する百灯もの庭園灯に照らし出された芝生の上を流れていくストリングスの調べ。その情景はホールの隅に立ちすくんでいる幡野の心をむしろ暗く沈ませてしまった。自分がいかにこの場にふさわしくないか、それがいやというほどわかるからであった。 「こんな世界が実際、現代にあるとは思わなかった。これではまるっきり、昔の貴族社会ではないか。日本でもこんなことが行われていたのか」須田は眼が醒《さ》めたような思いだった。「おれは今まで、社会の片一方だけしか知らなかったんだ。実態も知らずに金持の悪口ばかり言っていたんだ」  自分の服装が恥ずかしく、あたえられたシャンパン・グラスをかかえこんだまま、さっきから須田はずっと玄関ホールの、階段の下の目立たぬ場所に腰をおろしていた。広いところへ出ていけば接待役の若い女優たちから軽蔑《けいべつ》の眼で見られることはあきらかだった。自分を招待した大助に腹が立ったし、うかうかと出かけてきた自分にも腹が立った。どこかで客の応対に眼がまわるほどいそがしくしているのであろうが、頼みとする大助はまったく姿を見せず、この広さとこの招待客の多さでは、さがしまわる気にもなれなかった。  帰ろうかな、と、早川は思った。ひとり虚勢を張り続けることにくたびれてしまい、彼は投げやりな気分でテラスに立っていた。いっそのことべろんべろんに酔っぱらう、という手もあったが、それは彼の見栄《みえ》が許さなかった。庭のひと隅でサーカスが始まったらしく、どっと笑う声が聞えてきたが、早川にはそれがまるで自分への嘲笑のように思え、ますます気が滅入《めい》った。  思いきって話しかけた若い女性からまったく相手にしてもらえなかったため、もうそれ以上誰かをダンスに誘うという気にもなれず、坂本はシャンパンをがぶりと飲み、苛立たしげに周囲を見まわした。商売柄パーティの席へ出たことはあるが、それはいつも奉仕する立場でだったのだ。くそ、おれはいつまでたっても奉仕する側にしか身を置けないのか、そう思い、むしゃくしゃした。彼としてはいちばんいい服装でやってきたつもりだったから、さほど場違いではない筈だ、ちっともおかしくはない筈なのだとけんめいに自分に言い聞かせるのだが、やはり見るひとが見れば単なる貧乏人のせいいっぱいのお洒落《しゃれ》にしか見えないのだろうと思い、身がすくんだ。彼は、いわば自分の仲間であるボーイたちが飲みものを作っているバーの傍にまでやってきてやっと居場所を見つけ、落ちつくことができた自分につくづくなさけなさを感じていた。 「あらっ。こんなところにいらっしゃったの」鈴江がやってきて幡野の前に立った。「さっきからお捜ししていたんですのよ」  幡野は最初、それが自分に向けてかけられた声とは思わず、そもそもそれが鈴江とも思わなかった。白いドレスを着た何やら美しいものが自分に近づいてくる気配を感じた途端、これ以上傷つくまいとする本能からいそいで顔をそむけてしまったのだ。 「鈴江さん」幡野は眼をしょぼしょぼさせ、広くあいた鈴江のドレスの胸もとへ行こうとする視線をけんめいにそらせた。「すみません。見違えちゃって」 「いやですわ」親しげな笑みで、鈴江は幡野の顔をのぞきこんだ。「ずっと、おひとりでしたのね。まあ、お構いしなくてほんとにすみませんでした」  誰もぼくなんかには構っちゃくれませんよ、そんなひねくれたことばをつぶやきそうになり、幡野はいそいでかぶりを振った。「いいえ。そんなことはありません。楽しんでいますよ」 「ねえ。踊りません」 「え」すい、と一歩傍へ寄ってきた鈴江の、ラヴェンダーの香りを甘く嗅《か》ぎながら、須田は少しどぎまぎした。 「あら。女の方からお誘いしたりしてすみません」 「いえ。そんなことは。でもぼく、ソシアル・ダンスは得意じゃないので」はっきり踊れない、と言えぬ自分を須田は恥じた。 「大丈夫ですわ。ずいぶん下手なかたも踊ってらっしゃいます。あら。それとも、わたしというパートナーがお厭《いや》でしょうか」 「まさか」そんな意地の悪い言いかたをする鈴江に少し驚き、須田はこころもち身をのけぞらせた。「とんでもない。それじゃ、ただ歩いているだけでいいのでしたら」ただ歩くだけのダンスなら、酔った時に二、三度したことがあった。 「ええ。もちろん、それでいいのですわ。あら。でもずいぶんお上手じゃありませんこと」  やわらかい鈴江の腰に手をまわした早川は、その触感を楽しむ余裕もなく、身をこわばらせてぎくしゃくと踊った。それでも、ちょうどストリングスが老人向けの古くさいツー・ステップのダンス・ミュージックを演奏しはじめていたため、さほどぎこちなさを見せずにすんだのがさいわいだった。  やがて踊りながら鈴江の美しい顔を正面から眺めるゆとりが出てきた早川は、彼女に訊ねた。「あなたのお宅は、どちらですか」彼女が自宅から通勤しているのか、それともこの邸に住みこみで働いているのか、以前から気になっていたのだ。 「わたし、自分の家はありません。このお邸に住まわせていただいてますのよ」 「ほう。ではまるで」 「ええ。養女みたいにしていただいておりますの」 「では、神戸君と」  結婚なさるのですかと訊ねようとしてためらっている早川に、鈴江は手まわしよく答えた。 「兄妹みたいなものですわ」 「あ」安心感と、話に身を入れすぎたせいで足もとが留守になり、早川はつまずいた。「失礼」 「いいえ。とてもお上手ね」 「最近、あまり踊っていないものですから」と、坂本はいった。多少は自信のあるダンスも、いささかの酔いとパートナーの美しさのせいでステップが乱れがちだった。「あなたはとても美しい」失敗をとり戻そうとして、坂本はそういった。  そんなこと誰からも言われて馴れているのだろうと思っていたのに、鈴江はたちまち耳たぶまでまっ赤にした。おやおや、と、坂本は思った。案外うぶじゃねえか。これなら簡単に心を奪えそうだぞ。もちろん、口説き落すのは大変だろうが。結婚。この娘と結婚。養女。この邸の養女といったな。それならおれは。  坂本の胸に野心がふくれあがった。 「少し暑くありませんこと」 「あっ。そうですね」鈴江のことばで、幡野は感電したように彼女のからだから自分の身をひきはなした。 「お庭へ出ましょうか」 「はい」幸福感が幡野の胸を満たした。この美しい娘とふたりきりで話しあうのは初めてだった。  ふたりはテラスから庭におりた。 「あなたのように真面目なかた、わたし大好きですわ」 「大好き」というようなことはをさらりと言ってのける鈴江にまた驚きながら、幡野も自分の感情をなんとか伝えようとした。だが、うまく言えなかった。 「ぼくも、その」口ごもりながら、須田は鈴江の表情を盗み見た。庭園灯に照らし出された鈴江の顔は、はっとするほどの美しさだった。この娘とこうして話しあうことができただけでも、ここへきた甲斐《かい》があった、そう思い、須田は幸福感に酔った。 「このベンチに掛けましょうか」 「はい」須田は素直にうなずき、鈴江とベンチに並んで腰かけた。 「来月四日の日曜日は、わたしの誕生日ですの」 「ほう」早川は鈴江の横顔をじっと見つめた。  見つめながら、彼は考えていた。この娘はおれが好きらしいぞ。大勢の客をほっておいて、おれとこうして話してくれるのは、おれに好意を持っているからに違いない。さっき、おれのような男らしい人間が大好きといったではないか。この娘をおれのものにできれば、おれは。 「このお邸で、誕生日のパーティをしてもいいって、大助さまのお父さまの、喜久右衛門さまがわたしに、おっしゃってくださいましたの。それで」鈴江はちょっともじもじしてから早川にいった。「あなたも、いらしてくださいますかしら。もしいらしてくださるのなら、とても嬉しいんだけど」 「喜んでうかがいます」  坂本は有頂天だった。もう、おれに惚れたに違いないぞ。あんなに顔を赤くし、すぐそのあとで「大好き」なんてことを言ったんだものな。そして今度は誕生日のパーティにご招待か。もう、おれのものだ。  坂本はそっと手をのばし、鈴江の手を握った。鈴江がびくっとして身をこわばらせた。坂本はほくそ笑んだ。 「あ。そうそう」鈴江が今思いついたという表情で幡野に顔を向け、気を悪くしないかどうかをうかがうようなそぶりを見せながら言った。「おねだりするようで悪いんですけど、皆さん、贈りものひとつずつ持ってきてくださいますのよ。あなただけ何もお持ちでないと具合がお悪いだろうと思って申しあげるんですけど」 「そりやもう、もちろん」幡野は大きくうなずいた。「気になさることはありません。誕生日のパーティにプレゼントを持ってくるのは常識ですからね。必ず持ってきますよ」 「嬉しいわ」 「でも」須田は鈴江に訊《たず》ねた。「どんなものがいいでしょうね。あなた、何かお望みのものがありますか」 「ええ。あります」と、鈴江はいった。「須田さんからは、わたしがいちばん欲しいと思っているものを頂きたいわ。そう。わたしの誕生石の指輪を」  須田は絶句した。やはりこの娘はブルジョア娘だ、そう思い、いささかの失望が彼を現実にひき戻した。今までに、宝石類をひとからいくらでも貰えたものだから、平気でこんなことが言えるのだろう、と、そう思った。 「で、あなたの誕生石というのは」  おそるおそる訊ねた早川に、彼女はしなやかな指をのばして自分が嵌《はめ》ている指輪を見せた。「ダイヤです。これ、小さいでしょう。も少し大きいのがほしいんです」  驚きを表情に出すまいとするだけで早川はせいいっぱいだった。彼女が小さいと称するそのダイヤが、充分一カラットはあったからだ。それでも彼は唾をのみこみ、平然とした口調を装いながらいった。「必ず持ってきますよ。あなたの気に入るようなやつをね」 「まあ。本当にいただけるの」鈴江は眼を輝かせ、坂本に念を押した。 「本当です。必ず持ってきます」自信たっぷりの笑顔でそう答え、坂本はいきなり鈴江を抱きすくめた。 「あっ」  弱よわしく抗《あらが》おうとした鈴江の唇を、坂本は図太く強引に奪った。ほんの少し唇に触れただけだったが鈴江は大きな衝撃を受けた様子で、いそいで立ちあがり、彼に背を向けた。肩が顫《ふるえ》えていた。なんだ、この女は、と、坂本は思った。ダイヤを寄越せなどとはしたないことをいっておきながら、キスされたぐらいでこんなに驚くなんて。ブルジョアの箱入り娘なんて、みんなこんなものだろうか。しかし、これでもうこの娘は、おれのことを忘れられなくなった筈だぞ。 「約束します。きっと、大きなすばらしいダイヤを持ってきますよ」  そんな約束をしておきながら、幡野は、やっと彼女の指さきを握ることしかできなかった自分に腹を立てていた。貧乏ゆえの自分の内気さに腹を立てたまま、他の若い男と踊っている鈴江を、ホールの隅から彼はじっと見つめた。見ていろ、と、幡野は思った。こんなことくらいで腹を立てたりしないくらいの大金持になってやるぞ。必ずなってやる。今に見ていろ。そうか。これが金持の正体か。他の若い男と踊りはじめた鈴江をホールの隅から見つめ、須田はそう思った。ようし。今に見ていろ。おれひとりのものにしてやるぞ。他の若い男と踊っている鈴江をホールの隅から見つめ、早川はそう思った。今に見ていろ。坂本も、心に誓っていた。おれのものにしてやる。あんな具合に、他の若い男なんかとは踊らせねえぞ。おれひとりのものにしてやるのだ。今に見ていろ。いまにみていろ。イマニミテイロ。 「容疑者たちが動きはじめた」四人の容疑者それぞれの尾行担当刑事から次つぎとかかってくる電話に、五億円強奪事件捜査本部長福山キャップの声がはずんだ。「今のは狐塚君からの報告だ。早川がオートバイで出かけたそうだ」  刑事たちが呻《うめ》き声とも唸《うね》り声ともつかぬ声をいっせいにたてた。「今度は早川か」 「坂本を追っている猿渡君から、その後連絡はありませんか」と、大助は訊ねた。 「まだだ。追跡中なんだろう」福山が立ちあがり、落ちつかぬ様子でいらいらと歩きまわった。「今夜は徹夜になりそうだぞ」  布引が戻ってきて、福山の顔を見るなりげらげら笑いはじめた。「須田がとうとう、労組の委員長になってしまいました」 「ふうん。貧富の差を目撃し、階級意識に眼醒めたか」福山キャップは複雑な表情をした。  笑いながら、布引は喋り続けた。「奴さん、今までの委員長を、やりかたがなまぬるいといって吊《つる》しあげて馘首《くび》にして、ついさっき自分が委員長になりました。賃上げを要求して今朝がたからストライキをやっていましたが、夜に入って今度は五、六人の仲間とハンストをはじめました。もう尾行の必要はないと思ったので帰ってきたんです」 「速断はできんが、この男、十中八九犯人じゃないな」福山は大助にいった。「神戸君。この男にはもう何もしてやる必要はないよ。すでに君は彼にとってたいへんプラスになる教育をしてやったんだから」 「しかし鈴江君からダイヤモンドを要求された時はやはりショックを受けた筈で、深く傷ついたことでしょう。気の毒なことをしたと思います」  大助がそういうと、布引は軽薄な調子でなぐさめた。「気にするな。ブルジョア娘に失恋したために立派な共産党員になれたってやつは意外に多いもんだよ」  鶴岡が戻ってきた。 「どうかね。幡野の様子は」 「その後、変りはありません」と、鶴岡は報告した。「もう尾行の必要もあるまいと思い、戻ってきました」汗を拭いながら彼は椅子にかけ、珍しく声を出して笑った。「奴さん、発奮して、とうとう本当の大富豪になってしまいましたな」 「玩具《がんぐ》製造の会社を作ったということだったが、そんなによく儲かっているのかね」 「あ。キャップはご存じありませんでしたか。現在国内はおろか世界中で流行しておるあの玩具は、あれは幡野が発明し、特許をとり、一手に製造しておるもので、あのコロコロの売れ行きたるやまことに」 「あっ。ではあのコロコロ玉というのは、幡野が作ったものだったのか」いったんデスクに向って腰をおろしていた福山が、突然また勢いよく立ちあがった。「孫から買ってきてくれとせがまれておるのだが、どこのデパートでも売り切れで、入荷した日にはえんえんと並ばなきゃ買えんらしい」福山は大助に、すがるような眼を向けた。「君、ひとつ貰ってきてくれんだろうかねえ。あのコロコロ玉を」 「コロコロ玉ではなく、コロコロです」と、布引が訂正した。 「わたしはひとつ貰ってまいりましたが」鶴岡がポケットから、表面を赤青黄に塗りわけた、見かけはなんの変哲もないポール玉をとり出した。 「くれ」福山が目の色を変えた。「友達が持っているのに自分はないといって、孫が泣いておるのだ」 「おことばですがキャップ、これはじつはわたしの孫にやらなければならないのです」  福山が苦虫を噛みつぶしたような顔で、ゆっくりと綺子に掛けた。それから大助に向きなおった。「しかし、工場だの設備だのには資金が必要だった筈だが」 「ああ。それはぼくが貸してやりました。あのパーティの翌朝、彼が金を貸してくれといって、たいへんな勢いでぼくのところへ」  その時、鶴岡の投げたコロコロが、コロコロという音を立てながら勢いよく福山の鼻さきへとんできた。おどろいた福山が身をそらせた時、コロコロは宙であと戻りをし、コロコロといいながらふたたび鶴岡の手の中へ舞い戻った。福山を除き、全員がどっと笑った。 「いったいどういう仕掛けになっとるのかなあ」刑事たちが鶴岡の持つコロコロの周囲に集まった。「ブーメランの応用だろうか」 「違うだろ。あれは曲線を描いて戻ってくるが、これは突然まっすぐに戻るからね」 「しかしこれは、たとえば子供が友達の顔などに勢いよく投げつけた場合、危険じゃないのか」 「いや。勢いよく投げつけようとした場合、それだけ勢いよく自分の方へ戻ってくるわけだから」  いまいましげにこの様子を見ていた福山が、大助に訊ねた。「だが神戸君。玩具なんて、はやりすたりのあるものだろう。あのコロコロ玉の」 「コロコロです」と、布引が訂正した。 「あのコロコロのブームが静まったら、あとはどうする気なんだ」  大助は微笑した。「大丈夫です。彼は他《ほか》にもたくさん玩具の特許を」  狐塚が怒気を漲《みなぎ》らせ、勢いよく部屋へ入ってきた。「早川を逮捕しました」  全員が立ちあがった。「あいつが犯人でしたか」 「そうじゃない。散弾銃を持って茜《あかね》町の宝石店へ押し入ろうとしたところを、現行犯で逮補したんだ」血走った服を、狐塚は大助に向けた。「だからおれがあれほど言っただろう。見ろ。君の道楽みたいな捜査方法で、とうとう犯罪者が出たんだぞ」  大助は蒼《あお》ざめ、うなだれた。「申しわけありません」  狐塚は怒鳴り続けた。「どうする気だ。犯人をつかまえるために別の犯罪者を出していたのでは、なんのための捜査かわからんじゃないか 「ああ狐塚君」と、鶴岡がいった。「早川はどこだね」 「取調室です」 「わたしが調べてもいいかね。なに。ちょっと別のことで心あたりがあるもんだから」 「ご随意に」  鶴岡が出て行くと、また全員が喋《しゃべ》りはじめた。 「じゃあやっぱり、坂本が本命だったのか」 「おれは早川が本命で坂本が対抗、須田がダークホースだと」 「こら。競馬ではない」狐塚が叫んだ。「不謹慎だぞ」  電話が鳴り、福山が受話器をとりあげた。「ああ、わたしだ。おお、猿渡君か。何っ。そこはどこだ。県境だと。ふん、ふん。すると山の中だな。よし。次の報告を待つ」受話器を置き、全員を見まわした。「坂本がひとりで山の中へ入っていった」 「さては山の中に金を隠していたか」  全員が色めきたっているところへ、この捜査本部の副本部長でもある署長が入ってきた。 「これは署長」 「いよいよ大詰だそうだね。もう新聞が嗅ぎつけて、下にやってきておるよ」  鶴岡が戻ってきた。「早川が吐いたよ」  狐塚が仰天して鶴岡を振り返り、叫ぶようにいった。「何を吐いたっていうんです」 「木挽《こびき》町の時計店強盗だよ」飄然《ひょうぜん》として椅子にかけながら、鶴岡はいった。「あれもやはり散弾銃を持ったやつで、木挽町は茜町のすく隣りだ。ぴんときたのさ」 「しまった。あれはおれが担当した事件だったのに、そこに気がつかなかった」狐塚は握りこぶしで机の表面をがんがん叩いた。「ええい。馬鹿野郎。馬鹿野郎」 「よかったな。神戸君」鶴岡は大助にうなずきかけた。「あいつはもともと犯罪者だったよ」 「ほっとしました」大助は肩の力を抜いた。  電話が鳴り、福山が受話器をとった。「はい。ああ、わたしだが。おお猿渡君か。何っ」立ちあがった。「そうか。そうか。よくやった」満面に笑みを浮べ、福山キャップが全員に告げた。「坂本が五億円入りのトランクを持って山から出てきたところを捕えたそうだ」  わっ、と全員が喚声をあげた。握手が交わされ、おめでとう、おめでとうの声が部屋に満ちた。部屋をとび出して行く者、電話にとびつく者もいた。  署長が踊り出した。「おめでとさん。おめでとさん」 「神戸君。よくやった。君の手柄だそ」  狐塚はまだ後悔し続けていた。「おれは馬鹿だった。馬鹿野郎。馬鹿野郎」 「なあ神戸君。あのコロコロ玉をひとつ孫に」 「コロコロです」 「馬鹿野郎。馬鹿野郎」 「おめでとさん。おめでとさん」 「ほんとにおめでとうございます。初手柄ですわね」  深夜、大助と鈴江はしんとした邸内の応接室にある片隅のホームバーで、ひっそりと祝杯をあげた。 「ぼくの手柄じゃないさ。親父《おやじ》の金と権力、それに君の演技力のせいだよ」 「お役に立ってようございましたわ。でも」いやなことを思い出したらしく、鈴江はちらと眉を曇らせた。「今だから申しますけど、ずいぶんつらい役でしたわ」 「そうだろうな。必ずお返しはするよ」 「あら。そんなことはいいんです。でも」しばらく考えに沈んでから、やがて鈴江は顔をあげた。「誕生日に幡野さんから、ダイヤの指輪をいただきました。三カラットもある大きなダイヤなんです。あれをどうしましょう」 「貰っとけばいいさ」こともなげに大助はいった。「今や彼も、何億という富豪だ」 「でも、あの」鈴江はもじもじした。「結婚も申し込まれてしまったんです」 「ほう」大助はじろじろと鈴江を見た。「そうか。で、君の気持はどうなの」  じっと大助を見つめる鈴江の大きな眼の中に、たちまち涙がふくれあがった。大助がおやおやと思っているうちにそれは次から次と彼女の頬をつたって流れはじめた。 「わたしの気持なんか、ちっともわかっていただいておりませんでしたのね。あんないやなせりふを喋らなければならなかったのは、ほんとにつらかったんです。でも、あなたの為《ため》と思ってじっと我慢して。どんなにつらかったか。あの、犯人に無理やり唇を奪われた時も、あなたの為と思ってじっと我慢して。それなのに。それなのにあなたったら」  大助は、眼を見ひらいたまま大粒の涙を落し続ける鈴江を茫然と見つめた。親父にしろこの娘にしろ、まったく、なんてよく泣くんだろう。まるでシャワーみたいに涙を流すじゃないか。こういうのは渇水期の水路へ立てておけば……。 [#改ページ] [#見出し]  密室の富豪刑事 「どう考えてもこれは殺人事件です」狐塚刑事が尖《とが》った犬歯を見せ、調書の綴りをばんばんと手の甲で叩きながらデスクに向っている鎌倉警部にいった。「事故死とは考えられず、自殺でもない。殺人事件としか思えません」 「そうなんだ。事件担当者の誰もがそう思ったからこそわが班が捜査を命じられたわけである」鎌倉警部はジャン・ギヤバンそっくりの顔をあげ、五人の部下を眺めまわした。「君たちにやって貰う。ただし言っておくが、これが殺人事件であるとすればたいへんな難事件であるから、その覚悟でやってもらいたい」 「なにしろ密室ですからね」ミステリー・ファンの猿渡刑事がくすくす笑った。  狐塚は咎《とが》める眼で猿渡を見た。「こら。推理小説じゃないんだぞ。不謹慎だ」 「でも、密室は密室でしょう」  口を尖らせてそういった猿渡を弁護するかのように、長身|痩躯《そうく》の鶴岡刑事が眼鏡のレンズを拭きながらいった。「ま、冬場は夏場より密室が多いが、たいていは偶然そうなったもので、今度のようにどうやら完璧《かんぺき》に仕組まれたらしい密室というのはちょっと珍しいね」 「殺人事件と決めてしまう前に、もう一度だけ、事故死あるいは自殺の可能性がまったくないかどうかをよく検討してみようじゃないか」鎌倉警部はデスクの上の調書の束をぽんと叩き、まだ前歯が欠落したままで、あいかわらずアルフレッド・E・ニューマンそっくりの顔をしている布引刑事にうなずきかけた。「現場の状況を、ひと通り調べてきたかね」 「はい。調べてまいりました。それではさっそくご報告を」布引は手帳を出し、赤ん坊のようにころころした指さきでページを繰った。「最終的な報告ですから、よくご存じのことも含め、全部ひと通り申しあげます。死亡者は宮本鋳造株式会社の社長、宮本法男《みやもとのりお》氏で四十八歳。この宮本鋳造はたがね町六丁目にあります。あの古本屋の多い通りのずっと行ったところで、町のはずれのちょっと淋しいところですな。建物は鉄筋コンクリート二階建てで、一階が工場で二階が事務所、三階が応接室と社長室です。出火したのは十一月二日の午後九時二十分ごろで、三階社長室の内部が完全に焼けてしまい、室内から宮本社長の焼死体が発見されました。応接室もちょっと焼けました。最初火事に気がついたのは守衛の松平甚一郎六十一歳で、いつものように夜の社内を見まわっている途中、閉じられた社長室のドアの鍵穴《かぎあな》から煙が出ているので驚き、あわてて合鍵でドアをあけたところ室内が火事だったというわけです。さいわい火勢がいくぶん衰えていましたし、守衛の電話で消防車が駈けつけた時、この松平というもと警官だった守衛が消火器を使い、燃えひろがるのをけんめいにふせいでいましたから、大火事にはなりませんでした」 「出火の原因は、まだわからないのかね」と、鶴岡が訊《たず》ねた。 「それが、まだなんです」手帳から顔をあげて眉をしかめ、布引がいった。「火もともよくわからない。煙草の火じゃないかと思うんですが、それにしては火のまわりが早すぎるんです。ま、どちらにしろ社長室の内部であることには間違いないんですがね。ああ。申しあげておきますが、この社長室というのは約二十坪、天井高四メートル、窓はなく、壁と天井は防音構造となっておりまして、また耐火材が使用されております。応接室に通じるドア一枚で完全に外部とは遮断《しゃだん》されてしまいますが、冷暖房のダクトが通じ、鍵穴がありますから、厳密には密室だとは言いかねます」 「いえ。ミステリーの方ではその程度なら密室と称するんですよ」猿渡が不満げに口をはさんだ。 「布引君がいうのは気密室という意味だろう」と、鎌倉警部がいった。「で、室内に自然発火しそうなものは、まったくなかったのかね」 「はい。出火当時、室内にありましたものは」布引はまた手帳に眼を落した。「社長用の欅《けやき》のデスクと回転椅子。来客用の五点セット、これはテーブルが木製、椅子は布貼りです。スチール製の書類ロッカー。チーク材の書棚とたくさんの技術書。欅の飾り棚。カセット・デッキ。スピーカー。それから床にはふかふかのカーペットが敷きつめてありまして、スチール製ロッカーやカセット・デッキを除いては燃えやすいものばかりですが、自ら発火しそうなものは何もありません。また、時節柄冷暖房装置はつけておらず、出火時には換気もしていなかったようです」 「じゃあ、放火でないとすれば、煙草の火の不始末ということになるが」殺人事件と決めこんでいるためか、孤塚が気のりせぬ様子で布引に質問した。「それらしい形跡はあったのかね」 「現場からは、煙草の灰が大量に発見されました」布引は答えた。「宮本社長はヘビー・スモーカーだったそうです。それも、葉巻を」 「ほう。葉巻をねえ」狐塚はにやにや笑い、ことさら馬鹿にしたように、神戸大助《かんべだいすけ》の方へ向きなおって訊ねた。「神戸君。君はいつもハバナから取り寄せた一本につき八千五百円の葉巻をぷかぷかやっているが、何かね、この、葉巻というものは、ふつうの煙草にくらペて、吸殻が火事の原因になりやすいのかね」  しばしとまどった様子を見せてから、大助は真面目に答えた。「吸殻が特に燃えやすいということはないと思います。ぼくはよく、火のついた葉巻を灰皿にのせたまま他《ほか》のことに気をとられて忘れてしまい、机の上とかカーペットの上とかに落していることがありますが、たいてい消えてしまっています。だから、燃えやすいというよりはむしろ消えやすいといった方が」 「火のつきやすいものを誰かが持ちこんだとも考えられるな」鎌倉警部が鶴岡に顔を向けた。 「君は守衛を尋問してくれたんだったな。出火直前には、誰が社長室に入ったんだね」 「はい」鶴岡は手帳を出し、綺子の上で姿勢よくのばしていた背をそのまままっすぐ前に傾けて話しはじめた。「事務室も工場も五時半には終り、あと、社内には社長と守衛の二人だけしかいなくなります。社長秘書が社長につきあって少し残業することもあるそうですが、この日は定時に退社しています。宮本社長というのはたいへん秘密主義の人で、ふだんでもこの社長室へ勝手に鍵をあけて入れるのは秘書と守衛の二人だけなのですが、秘書が入る時は守衛から鍵を借りなければなりません。この宮本社長はたいへん研究熱心な人でして、社長室に残ってひとり、バロック音楽のカセットを聞きながら、夜の十時、十一時頃まで勉強するのがほとんど毎晩であったといいます。そして宮本社長はいつも自ら内側より本締り錠に鍵をかけ、さらに夜錠《ナイトラッチ》をかけるという要心深さだったそうです。守衛が火事を発見した時にはこのふたつが共にかかっていて、そのため彼は開ける時に二種類の合鍵を使ったと言っています。さてこの夜、五時半以降に社長室を訪れた人物はたったひとり、問題の、江草鋳物工業の社長、江草竜雄《えぐさたつお》です」鶴岡は眼鏡の上枠《うわわく》越しに全員を見まわして反応をうかがった。 「それ以外の者は絶対に入らなかったんだね。守衛の松平も」と、鎌倉警部が念を押した。 「そうです」鶴岡は、自分のことのように大きくうなずいた。「なお、ひとこと申しあげておきますが私はこの松平という男が警官であった頃から彼をよく知っております。たいへん優秀な男でして、しかも職務に忠実、特にこの宮本社長にはたいへん恩義を感じておったようであります」   「守衛が嘘をついているとは言っておらんよ」鎌倉警部は宥《なだ》めるようにいった。「江草社長が来たのは何時かね」 「八時半ごろだそうです。彼の来訪は、前もって電話があったため、社長も松平も知っておりまして、松平が裏口の横の守衛室で待っておりますと、ほぼ約束の時間通りに江草社長がひとりであらわれました。松平が案内しようとしますと、江草は、いや、わかっている、わかっているといって、ひとりでエレベーターに乗り、三階へあがったそうです」 「エレベーターというのは六人乗りの小型のものであります」と、布引が横から口を出した。 「このエレベーターに乗り、三階で降りますと、そこは広いロビーでありまして、窓が表通りに面しております。このロビーは応接室にもなっておりまして、小さなスクリーンに遮《さえぎ》られた五組の応接セットが置かれています。建物の裏側にある社長室へはこのロビーから入るわけであります」 「江草社長が帰っていったのは、九時十五分から二十分までの間であると松平は言っています」  鶴岡がそういうと、鎌倉警部は顔をしかめた。「問題はそこだ。出火した時間とほとんど同時なのだ。江草が放火して帰ったのだろうという疑いが出た理由もその辺にあるのだが」 「しかし、もしそうであるなら、江草は社長室に火を放ったのち、いったいどうやってあの部屋を出たのかという疑問が出てきます」ここぞとばかり、猿渡が身をのり出した。「何しろあのドアは頑丈なスチール製であり、本締り錠と夜錠《ナイトラッチ》の両方ともに鍵がかかっていた。江草が宮本社長の鍵を奪い、中から錠をあけて出たとは考えられません。焼死体となった宮本社長は、ちゃんと鍵をふたつとも持っていたそうですからね」 「あまり密室にこだわり過ぎるのはよくないな」狐塚が苦笑してそういった。「合鍵など、いくらでも作れる。それよりも問題は、火事の原因が何かということだ。それにキャップ」狐塚は鎌倉警部に皮肉な笑いの眼を向けた。「まず、事故と自殺の可能性について検討するんじゃなかったんですか」 「ああ。そうだった」鎌倉警部は顔を赤らめた。 「宮本社長の焼死体が発見されたのは、ドアからだいぶ離れた、自分のデスクの近くでした」と、布引はいった。「ふつう、事故による火災であれば、あわててドアの方へ逃げる筈じゃありませんか」 「最初ドアの近くに火がついて、それから逃れようとしたとは考えられませんか」と、猿渡がいった。  布引がかぶりを振った。「ドアの近くに、燃えあがるようなものは何もなかった。それに、部屋の奥へ逃げたって逃げ道はないんだよ」 「冷暖房装置のダクトというのは、どれくらいの大きさかね」  鎌倉警部の質問に、布引はまたかぶりを振った。「駄目です駄目です。とても人間が通れるような大きさではありません。まあ、鼠か仔猫ならなんとか」 [#挿絵(img/073.jpg)] 「火災の原因がよくわからないというのは不思議だね」と、鶴岡はいった。「最近の科学捜査では、相当くわしくわかる筈なんだが」 「消防署の連中も、首をひねっていました」自分も首をかしげ、布引は答えた。「まるで部屋全体が一度にぱっと燃えあがったようだなんて」 「ま、自殺であればガソリンを部屋中に撒《ま》いて火をつけたとも考えられるが」  そういった鶴岡に向きなおり、布引が開きなおった口調でいった。「可燃性液体、可燃性気体の容器らしいものは何も発見されず、そういったものを使用した形跡はまったくありません」 「ではなぜ火がついた」全員が、しばらく考えこんだ。 「自殺すべき理由も、まったく見あたらないのです」宮本社長の身辺を調べた大助が、おずおずと報告した。「会社は順調に利益をあげ、ほとんどの社員は社長を信頼していました。家庭は円満です。晩婚だったため若くて美しい奥さんとは結婚してから十年めで、とても仲がよく、家は小さいながらも洒落《しゃ》れていまして、庭の芝生は広くてよく手入れされ、花壇には薔薇《ばら》が植えられ、四歳の坊やが犬とたわむれ」 「坊やの横にはあなた、という歌があったな」矢も楯《たて》もたまらず、という口調で猿渡が、狐塚に睨《にら》みつけられることも覚悟でまぜっ返した。 「まったく、あの歌の通りの家庭なんです。また、宮本社長は技術|畠《ばたけ》の人でして、哲学的|厭世《えんせい》感などというものとはまったく縁がありません。誰に訊ねても、彼の責任感の強さを考えれば、自殺などとても想像できないと答えています。というのは、宮本鋳造という会社は特殊技術によって特殊な製品を別注で作る会社でしたから、宮本社長の高度な技術的才能と手腕なしには成立不可能、運営不可能だったのです。事実、宮本社長の死後、会社は活動停止のままで、現在会社の解散と社員の解雇が準備されています」 「やはり事故とか自殺とかいうことは考えられません」とどめを刺すような言いかたで狐塚が胸を張り、しばし鎌倉警部を睨み据えてから、手帳をとり出した。「今の報告に関連して、宮本鋳造の取引先関係の調査結果を申しあげます。宮本鋳造はむろん鋳物を作っている会社だったのですが、だいたいこの市は昔から鋳物の盛んなところで、たくさんの鋳物工場がある。しかし宮本鋳造は真空鋳造というあまり大きな工業には利用されていない特殊な方法によって、特殊な金属のみを鋳造することにより、小さいながらも業界に特殊な地位を築いておったのです。つまりふつうの鋳造ですと、空気の中にある酸素だの水素だの窒素だの、そのほかのいろんなガスが鋳物に混って鬆《す》を作ったりする。真空内で鋳造しますと、この点でガスによる欠陥のない鋳物ができます。ですからある種の用途の金属機械部品、つまり宇宙ロケット用の部品とか、特殊な精密兵器の部品とかにはこの真空鋳造によるものしか使えないのです。したがって最大の取引先は市の南西部にあるあの東亜大学付属宇宙科学研究所ということになります。あとは兵器を作っている大企業の開発課付属研究所とか、その大企業の下請会社の、さらに下請とかいったところです。取引高でいちばん大きい宇宙科学研からの収入は、一時全収益の八十パーセントにもなっていたそうです。さて、この市で、こうした真空鋳造を専門にやっているところは、この宮本鋳造だけではありません。もうひとつ、江草竜雄が社長をやっている江草鋳物工業があります。つまり宮本鋳造は江草鋳物工業にとって、というより宮本社長は江草竜雄にとって、同業者であると同時に最大の商売|敵《がたき》だったわけであります」 「宇宙科学研からは、江草鋳物工業も仕事を貰っておったのかい」 「はい。宮本鋳造が設立された四年前までは、すべての仕事を江草鋳物工業が貰っておりました。ところがこの江草鋳物工業というのは、江草竜雄の父親の代からの鋳物工場でありまして、しかもいわば真空鋳造法をこの市で独占しておったわけで、江草竜雄はそうしたことの上にあぐらをかき、特注の仕事であることを口実に、社員に命じて法外な額の見積り、見積り額以上の請求などをやらせ、それでもまあ製品の出来さえよければいいのですが、それもよくなかったため、宇宙科学研はじめその他の得意先ではたいへん嫌われておりました」 「そこへ宮本鋳造ができ、仕事をさらわれたわけだな」 「その通りです。その上宇宙科学研には宮本法男氏の大学研究室時代の友人がいたりして、これは技術者同士ツーカーの仲ですから仕事もやりやすい。それに宮本氏は、設計図をひと眼見ればくどくど説明されなくても、どういう部分に使うどんな役割の部品かがすぐにぴんとくるといった直観力を持ち、さらに、ひとつ仕事を貰うたびに、できるだけいいものをできるだけ安く製造するにはどうすればいいかを研究したそうです。才能と努力。そして技術。これでは技術者というよりもむしろ職人であり商売人である江草など、とてもかないっこありません。最近では注文が途絶えて仕事が減り、たいへん困っておったそうです」 「とすれば当然、江草竜雄と宮本氏とは仲が良くなかった筈だが」鎌倉警部が狐塚に不思議そうな表情をして見せた。「江草竜雄を調べたのも君だったね。彼は、自分が事件当夜、宮本氏に会いに行った理由をどう説明しとるのかね」 「はあ」狐塚は、彼には珍しくあいまいな微笑を浮べた。「なにしろただひとりの容疑者らしい容疑者なので、彼の取討べは特に慎重にやる必要がありました。ですから扱いに気をつけ、突っこんだ質問は控えましたので、答えもあいまいなものしか得られなかったのですが」狐塚は手帳に眼を落した。「最初、宮本鋳造が操業をはじめて二年ほどのち、同業者ということで交際を求めていったのは自分の方からである、と江草は申しております。そしてまた、優秀な技術者としての宮本氏にはしばしば助言を乞いに出かけたそうです。会うのはたいてい宮本鋳造の社長室。飲みに行こうと誘っても、宮本氏はバーとかクラブとかが嫌いらしく、絶対にそういう場所へは出てこないので、しかたなく、いつも自分の方から出向いたと申しております。事件当夜も、製造上の難問の解決策を求めて宮本氏を訪れたのである、と言っておりますが、これが本当かどうかを確かめるのはちょっと困難ではないかと」  そういって救いを求めるような眼を向けた狐塚に、鶴岡はうなずき返した。「守衛の松平の話ですと、江草竜雄が夜会社へ宮本社長を訪れてきたのは事件当夜が五度めであったそうです。宮本氏はいつも、江草の来訪をあまり喜んでいないように思えたと、そういっています。しかし、江草がなぜ宮本氏をしばしば訪問したかその理由については、なにぶん宮本氏が無口であったためにまったくわからなかったそうで、これについては宮本氏の秘書である柴田つね子三十七歳も、同じことを申しております」 「宮本社長が酒を飲む場所へ滅多に出かけなかったというのは本当です」大助が口をはさんだ。「家庭では少し飲んだそうですけど。そりゃまあ、あんな美しい奥さんがいては、そうなるのがあたり前です。ですからバーやクラブ、あるいは花柳界などの女性とのつきあいもまったく」 「そりゃあ君、この市内のそういった店にはどうせろくな女がおらんのだから当然だよ」嘲笑《ちょうしょう》するように、狐塚がいった。「いい娘はみんな東京へ出ていって。その。ま、そんなことはどうでもいいが」咳《せき》ばらいをし、彼はあわてた口調で報告を続けた。「なお、事件当夜宮本氏の部屋へ何か燃えやすいものを持ちこんだのではないかという質問に対しまして江草は、持っていた発火性物体はライターだけだったと、ふざけた口調で申しました」怒りを押えた声で、狐塚はいった。「ちょっと警察をなめているような態度が見受けられます」 「守衛の松平も」と、鶴岡がいった。「やってきたとき江草は手ぶらであり、ポケットに設計図らしいものを入れていただけで、それは出ていく際にも持っていたと言っています」 「江草竜雄がふてぶてしい態度をとるのは、自分のたくらんだ密室トリックによほどの自信を持っているからに違いありません」性懲りもなく猿渡が、また口を出した。 「密室、密室というがね、猿渡君」狐塚はまた顔をしかめた。「江草が宮本氏を殺害したものとして、ではなぜ彼は現場を密室にする必要があったのかね。これは君の好きなミステリー小説ではなくて現実の事件なんだからね。密室トリックを思いついた犯人が趣味的にやった殺人であるような言いかたはやめたまえ。亡くなった被害者に対しても失礼だ」  猿渡はやや色をなし、反駁《はんばく》した。「ぼくは決してそんな不真面目な気持で密室密室といってるんじゃありません。また、現実に、江草が現場を密室にしたからこそ、われわれはこうやって犯行方法を推理できず、犯人が江草であるという決め手をつかみ兼ねて困っているんじゃありませんか」  返すことばを失った狐塚に助太刀《すけだち》して、布引がにやにや笑いながらかぶりを振った。「君のいうことは前後が逆だよ。それなら江草はなぜ、密室などというもってまわったトリックを考え出すかわりに、たとえばアリバイ工作といった、より現実的で確実に容疑圏外へ逃れ得るトリックを考えなかったんだい」 「どんなアリバイ工作をしようと、どうせ容疑圏外には逃れ得ないことを知っていたからです」猿渡は断定的にいった。「だって宮本氏を殺そうとする動機を持っている人物が他にはいず、どうせ自分ひとりが疑われることになるだろうということぐらいは、江草にだって予想できますからね。あきらかに殺人事件と判定される方法で宮本氏を殺害したら、いくらアリバイ工作をしようと、警察はいつまでもそのアリバイを崩すために捜査を続けるでしょう。しかし事故か自殺かあるいは他殺なのかがよくわからぬ状況を作り、そこを密室にさえしておけば、いかに容疑が自分ひとりの上にふりかかろうと、犯行不能という結果が出るか、または犯行方法がわからないため、いずれは事故なのか自殺なのかがあいまいなまま迷宮入りに」  迷宮入りということばを聞いたとたん鎌倉警部が椅子の上一尺たらずの高さにとびあがったので、全員がちょっと驚き、眼を丸くした。 「すみません」猿渡はいそいであやまった。「キャップが迷宮入りということばをお嫌いなことはよく知っていたのですが、ついその」 「もういうな」鎌倉警部は猿渡の二度めのことばでまたとびあがりそうになり、呼吸をはずませた。「もう二度というな。誰であろうと今度いったやつは射殺する」汗を拭い、気を静めてから、彼は全員を見まわした。「君たちは問題を整理せず、雑然たるままにしておいて議論しとる。まず殺人であるということ。これは決定していいだろう。どちらにしろわが班に捜査をまかせられた限りは、以後その前提で捜査を進めることが本筋である。次に宮本社長殺害の動機を持つ者。これは今までの捜査の結果、江草竜雄以外には誰もいない。そこで、今後の捜査の過程で他の者が浮びあがってくるかもしれんが、今のところは唯一の容疑者である江草竜雄を調べることに全力を注ぐ。次に殺人現場の謎《なぞ》を解かねばならん。この謎は三つある。死因と出火の原因と密室だ。この三つは互いに関係があるのだろうが、どれかを重要視するとよくないので、ちょっと別べつの謎として考えてみよう。まず最初は死因である。狐塚君。死体解剖の結果を再確認しよう」 「はい」死体解剖に立ちあった狐塚が、大学病院からの中間報告書を見ながらいった。「死亡推定時刻は死体が発見された九時二十分ごろからさかのぼり、九時までであります。死因は焼死と断定されました。絞殺とか刺殺とか射殺とか、その他犯人から暴力を加えられたとと思えるような傷痕《きずあと》や形跡はまったくなく、さらに、毒物はおろか薬物をあたえられた形跡もまったくありません。キャップは今、謎とおっしゃいましたが、こと死因に関しては焼死であることがはっきりしております」 「いやいや。わたしが謎といったのはだね、焼死した際、宮本氏は身体の自由を奪われてもいず、意識が混濁した状態でもなかったらしいということだ。ところが現場の状況では、宮本氏が火から逃れようとしたふしはまったく見あたらない。まるで燃えさかる火の中で自ら好んでじっとしていたとしか思えない。これが第一の謎だ」 「考えられることはいくつかありますよ」猿渡が得意そうにいった。「突拍子もない可能性ばかり並べ立てますと、第一に、宮本氏が癲癇《てんかん》であり、出火時には発作を起していた。第二、江草によって催眠術をかけられていた。第三、火によって消失しやすい、痕跡《こんせき》の残らぬ紐《ひも》で縛られていた」 「わたしは宮本氏の主治医に会いましたが、彼は癲癇ではなかったようです」大助がいそいで猿渡の推理を否定した。「なお、死後痕跡の残らぬ筋弛緩《きんしかん》剤があり、これを注射すると身の自由は奪われますが、宮本氏はこの薬を必要とするような病気ではなく、また、一般の人が入手することは困難だそうです」 「突拍子もない推理をしはじめたらきりがない」布引が大っぴらに苦笑した。「催眠術をかけるには被術者の施術者に対する信頼が必要だ。また、痕跡の残らぬ紐はない。紙ひもだって灰が残るし、熱で溶ける紐、また酸素によって、つまり大気中へ出しておけば勝手に溶ける紐まであるが、これは溶けたあと化学反応実験によって使ったことがわかる。オブラートで作った紐であれば火災が起るなり溶けるから身の自由を奪ったことにはならない。第二の謎は出火の原因だけど、これも猿渡君ならどうせ、冷暖房のダクトの中へ火炎放射器を仕掛けておいたなどという推理をするんだろう。あいにくダクトの中には何もなかった。何かが置かれたり細工されたりした形跡もない」 「まだありますよ」猿渡がむきになった。「江草が帰っていったあと、あの松平という守衛が合鍵でドアをあけ、火炎放射器で室内へ火を吹きこんだ」  鶴岡が身をしゃちょこばらせ、生真面目な大声を出した。「さきほども申しましたが、あの松平という守衛は警官であった時代から職務に忠実であり、またたいへんな正義漢でありまして」  全員があわてて鶴岡をなだめた。 「まあまあ」 「猿渡君はもののはずみで言っただけだ」 「そうなんです」 「あの守衛はどう考えたって犯人じゃないんだから」  鶴岡が気を鎮めたらしいので、鎌倉警部は全員に向い、ゆっくりとうなずきかけた。 「ふたつとも、その原因が謎であるとすれば、残るひとつは密室の謎であるから、これを考えることによって前のふたつの謎を解く手がかりを得るよりしかたがあるまい」 「密室ですか」  いやな顔をした狐塚と布引に、鎌倉警部は微笑を向けた。「ま、そう言うな。猿渡君がこれほど言っとるんだ。われわれも少しはつきあってやろうじゃないか。今のところ他に手がかりを得るあてがないのだからね」 「ありがとうございます」猿渡は感激の面特で鎌倉警部に一礼し、傍らの机の上から風呂敷包みをとりあげ、膝《ひざ》の上で開いた。中からは四、五冊の推理小説研究書が出てきた。 「密室の講義をはじめるつもりか」狐塚がうんざりした顔で背をのばした。 「とんでもありません。さいわいにも推理小説の研究家によって密室のトリックが分類されています。その中からこの事件に当てはまりそうなものをひとつずつご紹介しょうというだけです」 「よかろう。じゃあ、やりたまえ」狐塚が投げやりにいった。 「最初はまず、現実的なものです。犯人がこっそりと合鍵を作っていたというもので、二組の鍵の保管が完全であったとすれば、これをやれたのは社内では守衛と秘書だけです。しかし守衛には動機がない」 「秘書の柴田つね子にも動機がありませんなあ」鶴岡は溜息をついた。「彼女は三十七歳で独身、主人に死に別れて子供が二人いる。宮本社長を殺したら職を失い、この不況ですから食いはぐれます。わたしが会った時も、可哀想に途方に暮れていましたよ。嫉妬《しっと》、ということも考えられない。本人には悪いが醜い容貌だし、宮本氏とそうした関係にはなかったようです。宮本氏が親友の奥さんだった彼女をいわば拾ってやったというだけですからね。鍵のことですが、宮本氏は自分の鍵を家庭外では身から離さなかった筈だし、守衛に聞いても秘書に聞いても鍵は二通りしかなかったし、自分たちは絶対ほかの誰にも預けたことはないと言っています。もっともこれは本人たちの記憶の誤りかもしれないし、守衛の鍵の保管のしかたがはたして完全だったかどうかももっと調べてみようとは思っとりますがね」 「では次」と、猿渡がいった。「古典的なトリックとして、抜け穴、秘密の通路というのがあります」 「あのビルの各階平面図を見ただろ」布引が笑った。「そんなものを作る余裕はないよ。外壁の厚さは二十センチ以下だ。天井裏はほとんどない。ダクトもむき出しのままだ」 「次はドアのメカニズムです」猿渡が顔をあげた。「まず、ドアの蝶番《ちょうつがい》をはずし、出てからもとに戻す」 「それも不可能だ。あのドアの蝶番は室内からしかはずせない。だから外からはもとに戻せない」 「ピンや紐を使って鍵をかけ、ドアの隙間から回収する」 「あのドアには隙間はないよ。下の方の鍵穴に糸を通して上の夜錠《ナイトラッチ》をおろすことはできても、下の鍵がおろせない。だいいち、合鍵があったかどうかが未解決だ」  さらに猿渡は二十いくつもの密室トリックを紹介した。だがいずれもこの事件には当てはまらないものばかりだった。 「よし。今日はそれくらい検討すればいいだろう」鎌倉警部が腕時計を見た。「密室トリックは猿渡君が主として研究してくれ。もちろん全員の課題でもあるわけだ。鶴岡君は引き続き宮本鋳造の社内を調べ、他の者は狐塚君に協力して江草を調べてくれたまえ」 「あのう」会議が終りそうな気配なので、大助はあわてて口を出した。「捜査としてはつまりその、あの、それだけですか」 「それだけとは何だね」鎌倉警部にかわって狐塚が大助に向きなおり、ちらと牙《きば》を見せた。 「ほかに捜査の対象や方法があるというのかね」 「もし江草竜雄がボロを出さず、密室トリックも破れなかった場合はどうなりますか。これは迷」大助はあわてて言いかえた。「すみません。いつまで経っても未解決のままということになります」 「ではどうするというのかね」とびあがりかけた鎌倉警部が眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せたままで言った。「かまわん。言ってみなさい」 「宮本社長を殺害した時と同じ条件下に江草を追いこめばどうでしょう」と、大助はいった。「つまり商売敵を作り、江草鋳物工業の仕事を全部奪ってしまう。江草はたいへん困って、また殺人を企てます」 「何を言い出した」狐塚が驚き、異星人を見る眼で大助を見た。「商売敵を作るということは、会社をひとつ設立するということなんだぞ」 「それをぼくにやらせて貰えませんか」大助が身をのり出した。「真空鋳造の技術に関することなら専門家を雇ってブレーンにすればいいのです」 「待て。まあ、待て」鎌倉警部が眼を白黒させた。「会社を設立するということは、大変なことなんだぞ」 「そうですか」大助は怪訝《けげん》そうな顔をした。「しかし、別段大企業の会社を設立するわけではありませんよ。あの宮本鋳造などは、会社というよりはむしろ町工場ですから、資本金だってそれほどは」 「金持ちの考えつきそうなことだ」狐塚はいやな顔をした。  全員があっけにとられている中で、猿渡だけがげらげら笑った。「これは面白いや。神戸君らしいアイディアだ。傑作だ」 「殺される社長の役を、誰がやるのかね」と、鶴岡が真面目な顔で大助に訊ねた。「危険な役だよ」 「これは、ぼくがやるしかないでしょう」大助は鶴岡に向きなおった。「真空鋳造のことは何も知りませんが、江草竜雄と話ができる程度に猛勉強します」 「おいおい。刑事は民間企業に関係できないよ」布引がにやにや笑った。 「はあ」大助は少し顔を曇らせた。「それならいったん退職してもいいですが。しかし、刑事の中にだって株を持っている人が。あれだって株主でしょう」 「あれも、ほんとはいかんのだ」鎌倉響部はちょっとしぶい顔をした。「ま、いいだろう。それはわたしがなんとか法の抜け道を考えてやるとして、問題はだな、はたして江葦竜雄が宮本氏を殺したのと同一方法で君を殺そうとするかどうかだが」 「それは社屋を、宮本鋳造の社屋と同じスタイルで作ればいいのです。特に社長室は完全に同じものにして、もちろん密室になるように。そうすれば江草も、一度は殺人に成功したことでもあるし、その上トリックを見破られてもいないから、他《ほか》にもっといい方法がない限り同じトリックを使う筈です」 「江草が罠《わな》だと勘づきゃしないか」狐塚が苦い顔のままでそういった。 「まさか」猿渡が大声を出した。「こんなでかい罠、いったい誰が仕掛けると思いますか」 「そうだね」鶴岡がうなずいた。「この市の鋳造会社は、みんな同じような規模のものばかりだ。社屋の間取りが似ていても、さほど不審には思わんだろう。狐塚君は江草鋳物工業へ行ったんだったね。あそこの建物はどうだった」  狐塚はしぶしぶ答えた。「まあ、宮本鋳造と似たような」 「会社設立の資金は、どうせ神戸君が自分の小遣を使うんだろうが、警察にとっては大金だ」捜査費用にうるさい鎌倉警部がもったいぶって金のことを言い出したため、全員がちょっとにやにやした。「請求されても警察で払えるかどうかわからん。覚悟しておいてくれよ」 「では、やらせていただけるんですか」大助が喜びの色を浮べた。 「わたしにちょっと希望がある」鶴岡が片手をあげた。「わたしも神戸君同様、江草には顔を知られていないのだ。そこで、その会社の守衛の役を、わたしにやらせてくれんかね。なに、普段は本職にやってもらい、ここぞという時にわたしが交代するわけだが」 「それならいい」鎌倉警部がうなずいた。「ほかの事件を抛《ほう》っとかれても困るからね  ここで突然、鎌倉贅部は回転綺子をくるりとまわし、読者の方へ向きを変えて喋りはじめた。「さて、読者の皆さん。ここでわたくしからひとこと皆さんにご挨拶申しあげます。この小説は、このあたりでちょうど前半を終ったところでありますが、賢明な読者諸氏の大方におかれましては、この事件の犯人の犯行手段及び密室のトリックがいかなるものであるか、もうすでにちゃんとおわかりのことと存じます。なにぶんこの作者、本格推理など書くのは初めてのことですから、文中へ伏線をたくみにまざれこませるなどといった芸当はとてもできぬらしくて、今までの部分で謎の解決に関係のある事件のたいていのデータはまっ正直に投げ出しております。専門外の密室ものに挑戦しようなどという作者の向う見ずによって、後半の解決のくだり、まことにご退屈のことになろうと思われますが、わたくしどもに免じてどうぞお許しくださいますよう。また、おわかりでないかたにはここでひとつのヒントをさしあげます。ヒントと申しますのは過去数年以内に起りましたある大事故であります。これは世界に報道され、当時だいぶ騒がれもいたしましたから、まだご記憶のことと思いますので、これをひとつ思い出していただければよろしいわけでございます。なお、もうひとつ申しあげたいことがございます。読者諸氏の中には、容疑者がひとりしか見あたらず、その容疑もまた非常に濃いというにかかわらず、警察の取調べが手ぬるい。現実の警察であればたとえ犯行方法はわからずとももっと責めつけ締めあげて、とっくに泥を吐かせているぞとおっしゃるかたもおられましょう。言いわけをするのではありませんが、しかしここは日本一の民主警察でありまして、わたしは小説のことはよくわかりませんが、考えまするに、おそらく作者によって文芸的に理想化された文字通りの民主警察として設定されているのではないかと思うのであります。お楽しみのところ、まことにお邪魔をいたしました。ではさっそく、続きをご覧ください」  その夜、食後のコーヒーを飲みながら大助は、昼間の会議でのいきさつを車椅子の父に語り終えた。「そういうわけで、その件はぼくに一任されました。似たようなスタイルの社屋を建てるとはいっても、あまりにも宮本鋳造と同じであれば江草がぎょっとして警戒しますし、宮本鋳造解散後、職を失った連中を雇い入れてもまずい。一応は、すべて新しく準備しなければなりません」  大助に背を向けてテラスの彼方《かなた》を睨んでいた神戸喜久右衛門が車椅子ごと振り返り、眼から涙を噴きこぼれさせながら、おろおろ声で喋りはじめた。「お前はもう、そんな立派な仕事をまかせられるくらい、警察で信用されているわけなんじゃなあ」洟《はな》をすすりあげた。「お前が一人前の刑事になってくれて、わしゃ、こんな嬉しいことはないんじゃよ。まったくもう、いつ死んでもいいという気持じゃ。お前が刑事になりたいと言い出した時、わしが反対しなかったのは、お前に正義を遂行してもらい、悪をやっつけてもらうことによって、親のわしの悪業で汚れたこの神戸家を洗い浄めてもらいたかったからじゃ。その願いは次第にかなえられていく」わあわあ泣きはじめた。「お前は天使じゃ。わしの宝じゃ。やってくれ。思う存分やってくれ。そのためにはわしの築きあげたこの財産など、全部使ってしまってくれてよい。それが罪ほろぼしに、げほ、なるのじゃ。げほげほげほ」涙にむせて咳きこんだ喜久右衛門は、やがて痰《たん》を咽喉《のど》につめ、呼吸ができなくなって四肢を硬直させた。 「またやった」大助はうろたえた。「いつもこうなる。なぜだ」  秘書の鈴江が自分の席から立ち、老人に駈け寄って介抱しはじめた。「最近、少し発作が起らなくなったと思って喜んでおりましたのに」 「そら見ろ。ぼくが泣かせるようなことを喋ったわけじゃないだろ」大助は気遣わしげに父の様子を見ながらいった。「仕事の話をすると、いつも勝手に泣き出すんだ」  やっと痰がとれてぐったりとした喜久右衛門の肩を撫《な》でさすりながら、鈴江は大きな黒いひとみ瞳を大助に向けた。「被害者の役だなんて、ずいぶん危険ですわ。もともと危険なお仕事ですから、わたしいつも心配しておりますのに」 「あ。もうよろし。ありがとう。ありがとう」喜久右衛門が背をのばし、大きく呼吸した。「息が停《とま》っている間に考えたのだが、このあいだ文化勲章を貰った工学博士の榎本《えのもと》というのが本大で名誉教授をしておって、昔わしがあちこちの企業の製品の欠陥をあばいてはその会社を乗取っておった頃、あの男に製品の欠陥を誇張した検査報告をやってもらい、そのかわりに研究所を建ててやったことがある。あれをつれてきて技師にすればよろしい。鋳造の専門家として、今では世界でも三本の指に入る男じゃ。ああ、それから」メモをとるよう鈴江に指で合図をし、老人は喋り続けた。「明日でも矢田部を呼んで、市内にあるわしの土地の一覧表と図面を持ってこさせなさい。たしか駅前の駐車場もわしの土地じゃったと思うが、あそこに会社を建ててもよいぞ」 「あそこは二千坪もあります」大助は眼を丸くした。「そんなでかい建物を建てる必要はありません。市のはずれの淋しい場所にある土地を百坪ほどいただくだけでいいのです」 「そんなものはいくらでもある。好きなところに建てなさい。それから神坂を呼んで会社の定款を作らせなさい。ああ、発起人にはわしの名前を入れぬようにな。監査役は誰がよいかな。設楽《しだら》は今、何をやっとるんじゃ。なに。新東京造船の社長か。じゃ、あいつにやらせよう。浮田が阪神金属工業の経理担当重役をやっておるが、あいつはなかなか腕がいいから呼びなさい。そして経理課長をやらせる」 「そんなものすごい人物は必要ありません」大助は困って首筋を掻《か》いた。「江草鋳物工業から仕事を奪うために、どうせ赤字覚悟でダンピングばかりするんです。だから経理は誰でもいいんです」  じろり、と喜久右衛門は息子を睨《にら》みつけた。「そういう時こそ、腕のいいやつが必要なんじゃよ」鈴江に訊ねた。「以前板ガラスの営業部長で、月に五百二十億という馬鹿な取引きをしたやつがいたな。あれは今、何をしとるのかね」 「あら。菊田さんなら、喜久右衛門さまがそうお命じになって、今は千代田グランド・ホテルの社長を」 「そうじゃった。あれを呼んで営業課長にしなさい」  大助は首筋をはげしく掻いた。「宇宙科学研の、年間二十億円の予算のそのまた一部を、江草鋳物工業と奪いあうだけなんですがねえ」  またじろりと、老人は息子を睨んだ。「ものごとは徹底してやるものじゃ。商売敵を倒産へ追い込むことにかけてわしは過去五十年間世界の誰にもひけはとらなかったのだぞ」 「でも、そんな人物ばかり集めてはニュースになりますから、経済界が騒ぎはじめます」 「むろん、全員が前歴を隠すのじゃ。こういう悪いことならわしにまかせておけ。けけけけけ」老人は歯ぐきを見せて笑い、息子の前であることに気がついてあわてて真顔に戻り、大きくうなずいた。「赤児の手をねじるようなものじゃよ。うむ」 「あの、ちょっとお話し申しあげてよろしゅうございますか」  そう言った鈴江を、喜久右衛門はまるでわが娘を見るように眼を細めて眺めた。「ああ。なんだね」 「江草社長は商売敵である大助さまのことを犯行に先だち、前もってよく知ろうとする筈です。また合鍵《あいかぎ》を手に入れようとするかもしれません。どちらにしろ、社長秘書に接触《コンタクト》してくる筈ですわ。そういう場合、やはり事件のことを知っている者が秘書役を勤めていた方が」  鈴江の意図を悟り、喜久右衛門がちらと眉をひそめた。「秘書役をやりたいというのじゃな。それはちと、危険ではないか。そういうものは女探偵か何かにやらせれば」 「ぜひわたしにやらせていただきたいのです。決して捜査のお邪魔はいたしません。それに大助さまのことが心配ですし」  そういってから顔を赤くした鈴江を、喜久右南門は気遣わしげにしばらくじっと見つめた。 「ま、それほどの危険はありませんよ」大助が楽天的な口調でいった。「鈴江さんなら最高の秘書だなあ」 「そりゃまあ、そうだ」喜久右衛門はしぶしぶうなずいた。「では、やりなさい。しかしくれぐれも気をつけてな」  二月になり、三月になったが、捜査はいっこうにはかどらなかった。密室トリックは解けず、新事実も発見できず、江草竜雄を逮捕できるような証拠は何もつかめなかった。その間大助は、捜査と会社設立準備に多忙をきわめていた。そして三月初旬、街はずれに三階建ての社屋が完成してからは、刑事と社長のひとり二役でますますいそがしくなり、警察と会社を日に何度も往復しなければならなかった。いよいよ社長業に専念できるようになったのは、四月に入り、会社が営業活動を開始してからである。社長たるべきものが会社を留守にして外を駈けずりまわっていたのではそれらしくないし、警察へ入って行くところを取引先の誰かに見られてもまずいというので、課長である鎌倉警部の許可を得、署に出ることをやめたのだ。  社長業に専念するといっても、「興和鋳造株式会社」と名づけた会社の三階社長室ででんと構え、のんびりしているわけにはいかない。社員の報告を受けて決裁したり、時には得意先へ挨拶に行ったり、そのあい間あい間を縫って鋳造の勉強もしなければならない。今日も大助は社長室の応接セットで、技術者として雇用した本大名誉教授榎本博士の講義を受けていた。 「今まででだいたい、鋳造技術の基本はお教えした」講義が一段落し、榎本博士は学者らしい気むずかしげな表情で大助をじろりと睨んだ。「明日からは、真空鋳造についてお話しよう」 「ぼくのようなまったくのしろうと相手に講義させたりして、申しわけありません」大助は深ぶかと頭を下げた。「榎本さんのような世界的権威に」 「ふん。まったくじゃ」榎本博士はほんの少し肩をそびやかした。「しかもあんたは、どうも呑み込みが悪うていかん。もっとも、大学のぐうたら学生どもの低能ぶりに比べりやあ、数等ましじゃがな」何を思い出したか、博士はちょっといらいらして、がんとテーブルを叩いた。「まったく、あいつらと来た日にゃあ」それから急に、くすくす笑いはじめた。「しかしまあ、こういうつまらん、馬鹿げたことにかかわるのも、気晴らしになってよろしい。それに実をいうとな、わしは今まで真空鋳造については関心がなかったから、あまり詳しゅうはなかった。むろんそんなものは、わしのような天才にとっては、ちょいと勉強すればすぐに全部理解できる簡単なことなんじゃがね。けけけけけ」歯を剥《む》き出して笑ってから、博士はすぐ真顔に戻った。「じつは昨夜もな、あんたにする講義の下調べをしとるうちに、いい製品をより簡単に安く製造する真空鋳造法の、まことによいアイディアがひらめいたのじゃよ。これはもしかすると新しい技術を発見することになるかもしれんのじゃ。そんなことになれば、また誰かがわしに勲章をやろうなどと言い出すかもしれん。いや。わしはもう勲章はたくさんじゃがね。ま、ノーベル賞はまだ貰っとらんので、あれなら貰うてもよいが。ま、そんなことはどうでもよい。つまりわしのような天才にとっては、どんなつまらんことでも勉強になるということなんじゃよ。おわかりかな。けけけけけけ」  冗談なのか本気なのかよくわからず、博士と一緒に笑ったものかどうかと大助がためらううち、ドアをノックして守衛の鶴岡が入ってきた。「社長。ちょっとご報告が。でも、お話し中でしたらまたのちほど参りますが」 「かまわんかまわん。もう終った」博士は立ちあがった。「わしはこれからちょっと、一階の工場で試作品の鋳造の監督をしてくる」 「よろしくお顔いします」 「なあに。工場長や工員をいたぶるだけじゃが、これが実に面白うてな。けけけけけけ」  博士が出ていくとすぐ、守衛姿の鶴岡が立ったままで喋りはじめた。「社長。その後の捜査結果をちょっとお知らせしておこうと」  大助はあわてて手を振った。「よしてくださいよ。鶴岡さん。ここには他に誰もいません」 「ああそうか。ひと前で君に喋る時の癖がつい出た」鶴岡は苦笑した。「ふたりきりでもそんな話しかたを不自然に感じないで口にできるということは、これはやっぱり君自身に生れながらの社長としての器量が。いやまあそんなことはどうでもよかった。じつはあの松平という守衛から何度も話を聞いているうちにわかったことなんだがね。江草が宮本鋳造へやってくる時はいつも自分で乗用車を運転してきたそうだ。その乗用車はたいてい宮本鋳造の社屋の正面、シャッター前の道路ぎわに停めていたらしい。ところが事件当夜、江草はどうやら営業用のトラックか何かに乗ってきたらしいんだね」 「ほう。なぜそれが松平にわかったんですか。そのトラックを見たというんですか」 「いや。外へ出て確かめたわけではないから、どういう車かはっきりとはわからなかったらしいが、エンジンなどの音があきらかにいつもとは違っていて、大型車のそれだったというんだ」 「で、江草は帰りもその車に」 「ああ。やはりシャッターの前に駐車している様子だったというんだがね」  大助は、ちょっと考えこんだ。  鶴岡は、今まで榎本博士が腰かけていたソファに尻を据えようとし、誰かが突然入ってきた時のことを考えてかまた立ち、室内をぶらぶら歩きまわりながら考え考えいった。「その、トラックらしい車に何か積んできた、とは考えられんかね。宮本社長を殺し、社長室に火を放つことのできた何かを」 「その場合、共犯者がいたことになりますね」大助は顔をあげた。「トラックに積んできたものを、守衛に見られぬように三階へあげようとすれば、三階ロビーの窓から吊《つ》りあげなければなりませんが、その為《ため》には下にもうひとり」 「そうなんだ」鶴岡は大きくうなずいた。「で、狐塚君にそれらしい人物が江草の周辺にいるかどうかを訊ねてみたんだが、これはいくらでもいる。だいたい江草の会社には江草の家族や親戚《しんせき》がたくさんいて、弟や義弟や甥《おい》や何やかや七、八人いる。この中でいちばん素行の悪い者はといえば窃盗の前歴がある義弟だが、他の者もみな評判はあまりよくないということだ」 「トラックで運ぶようなでかいもので、しかも三階から吊りあげることのできるもので、そして火を放つものとはいったいなんでしょう」大助は首を傾《かし》げながら、テーブルの上のケースから葉巻をとり、包装紙を破って口にくわえた。  大助がくわえた葉巻を、鶴岡はじっと見つめた。「わたしは君がこの部屋でそれをくわえるたびに、どきっとするよ」  ライターで葉巻に火をつけながら、大助はいった。「この建物の三階にも、通りを見おろせる窓を作っておきました。きっと同じ方法でぼくを殺しにかかる筈です」 「ほほう。葉巻というものは、そんなに火がつきにくいものなのかね」あいかわらず大助の手もとをじっと観察しながら、鶴岡がいった。「だいぶ時間がかかるようだが」 「そりゃあまあ、紙巻きに比べれば多少は」  鶴岡と大助がそれぞれの考えに沈んで黙りこんだ時、ドアをノックして営業課長、前は千代田グランド・ホテルの社長をしていた菊田が意気揚揚と入ってきた。「社長。やりましたぞ。わははははは」  鶴岡が直立不動の姿勢をとって一礼した。「では社長。わたしはこれで」  鶴岡が出ていくと菊田は威勢よくソファに腰をおろし、大声で喋りはじめた。「宇宙科学研が今年の秋に打ちあげる予定の技術試験衛星FFTS・2のことですがね。全部の予算はロケットも含めて約五十六億円、そのうち真空鋳造の部品には約四億円の予算が見込まれていることを今日の説明会で聞いてきました。こいつを全部わが社へ頂こうというわけですが、このあいだ提出しておいた距離変化率計測装置関係の試作品がですね、江草鋳物工業のそれよりも品質的にすぐれていて、見積りも安いというので、これはもうほとんどわが社に発注されることが決定しております。江草の方ではきっと、あわてとりますぞ。わははははは」中小企業の営業課長という役職柄、それらしく地味で粗末な服装はしているものの、さすが大ものの貫禄と眼光の鋭さは隠せず、態度やことばのはしはしにまで風格がにじみ出ている。 「いやあ。こういうことをしていると二、三十年昔を思い出しますなあ。いや、実際にも、とびまわりはじめてからぐっと若返りましてな。昨夜もあなた、家内と久しぶりで。まあそんなことはどうでもよろしいが、わたしにはやっぱりこういう仕事が向いとるんですな。しかもあなたの下で働けるなんて、こんな面白い愉快なことはちょっと他にない。わたしはまったく、あなたがこんなことを始められるとは思ってもいなかった。二十何年か前、わたしの膝の上でおしっこを洩らしたあなたがね。わはは。憶《おぼ》えとられますか」  大助は苦笑した。「憶えていないんです。でも、そのあなたに今また、こんなつまらない仕事をさせて、ぼくはたいへん気が重いんですよ」 「なんの。気になさることはありませんぞ。わたしや楽しんでやっとるんですから。それに詳しいことは知りませんがこれは何かその社会にとってたいへん深い意味を持つ事業なのだと喜久右衛門さまからうかがっとります」 「深い意味というほどのことはありませんが」大助は言いかたに困って首筋を掻いた。「ま、社会の為にはなります」 「そうでしょう、そうでしょう。それで採算も度外視してあんなに安い見積書を出されとるわけでしょうからな。まったくあれでは赤字もいいところですが、ま、このわたしにまかせておおきなさい。そのうち必ずもとをとって見せますよ。わははははは」  菊田が出ていってすぐ、ノックをし、秘書役の鈴江が入ってきた。「大助さま。いえあの、社長。ちょっとご報告を」 「なんだい」いささか興奮しているらしい鈴江を見て、大助はちょっと眼を細めた。 「江草鋳物工業の社長からお電話がございまして、あの、ご同業なのでご挨拶にうかがいたいと」 「さっそく来たか」大助は立ちあがり、にやにや笑いながら部屋の中を歩きまわった。「今日、競争見積りに勝ったばかりだ」 「いよいよ恐ろしいことが始まりますのね」鈴江は身をふるわせた。 「恐ろしいことなんか始まらないよ」大助は笑顔を向け、鈴江に近づいていって肩を叩いた。 「心配しちゃいけない。その恐ろしいことを奴《やっこ》さんが始めようとする前に、つかまえてしまうわけだからね。殺されるのはぼくだっていやだ」 「でも、どういう方法で殺そうとするか、まだわかっていないんでしょう」鈴江は大助に身をすり寄せた。「やっぱり心配ですわ」 「なに。最初は下調べにくるだけだろう。あまりよけいな心配をすると、君、また痩《や》せてしまうよ」大助は鈴江の肩に手をまわした。彼は、彼女と同じ邸内にいながら、今まで二人きりで親しく話しあったことが極めて少なかったのにこの二、三日、気がつきはじめていた。  誰かがノックをしたので、二人はいそいでからだを離した。  つい数カ月前までは阪神金属工業の重役をやっていて、今は中小企業の経理課長という役柄を几帳面《きちょうめん》に勤めている初老の浮田が、帳簿を小わきに入ってきて生真面目に一礼した。「これは若様。じつは設備投資の帳簿がやっと出来あがりましたので、お目にかけようと思い、お邪魔をいたしたわけでございますが」 「そんなもの、みんな浮田さんにまかせてあるのに」大助は苦笑し、鈴江を振り返った。「江草に返事をしなきゃならないね」  鈴江はうなずいた。「あと一時間ほどすれば、またお電話をかけてこられる筈でございます」 「それじゃ、営業時間中は多忙なので、夜の七時以降にお越しくださいと言っといてくれないか」  ちら、と、ほとんど誰にも悟られぬほどに眉をひそめてから、鈴江は一礼した。「かしこまりました」  鈴江が出ていったので、大助は浮田の生真面目さに調子をあわせ、社長用のデスクに向ってでんと腰をおろし、大きくうなずいた。「では拝見しましょうか」 「は」浮田は一瞬喜びの色を浮べ、かしこまって帳簿を大助の前に置き、ページを繰りはじめた大助に説明した。「鋳造工場の設備としてはむろん、必要なものすべてを買い整えました。その上、あの完全主義者で頑固|親爺《おやじ》の榎本博士が滅多に使わぬような機械まで多数購入させました。そのため、ご存じのように当初は六十坪ぐらいの予定でおりました一階の工場を敷地いっぱいに拡げなければならなくなったわけでこぎいます。また、これも若様はよくご存じのことでございましょうが、あの頑固親爺の榎本はすべての機械を最新式の」 「お話の途中ですが、浮田さん」大助は浮田を見つめた。「その、若様というのはやめていただけませんか」 「これは失礼を」浮田は背をのばし、しばらく大助の顔をじっと見つめ返し、やがて眼がしらににじんできた涙のために曇りはじめたレンズを拭こうとして眼鏡をはずした。「おことばではございますが、しかし若様、わたくしといたしましては、若様を若様とお呼びする以外の呼びかたを存じあげないのでございます。憶えておいででいらっしゃいましょうか。わたくしが昔、ご気性の激しかった喜久看衛門さまのお怒りに触れ、ステッキでもって打擲《ちょうちゃく》されようといたしました折、若様が泣いてお父様をおとどめくださいましたことを。あの時から、わたくしはいつか若様にお仕えする日がくるのを待ち望んでおりまして、たとえどのようなお仕事を若様がお始めになろうとすぐさま駈けつけ、こちらからお願いしてでも足軽のひとりに加えて頂こうと思い、それがもうなが年のわたくしのいわば夢だったのでございまして」泣き出したために涙があふれ出、浮田はハンカチを出した。「それを喜久右衛門さまもご存じでいらっしゃったらしく、だからこそすぐわたくしをお呼びくださったわけでございましょう。若様の下で経理の責任者として働ける。これは大時代とお呼び下さってもかまいませんが、わたくしにとりましてはもはや天国のイメージに近いことなのでございまして」ついに彼は、おいおい泣き出した。  大助が困りきっているうち、やがて浮田は気をとりなおし、眼鏡をかけなおした。「たいへんとり乱しまして失礼いたしました。しかしこの仕事のおかげでわたくしは二、三十年も若返ったようでございまして、これも若様のおかげでございます。昨夜などは久しぶりに妻とはげしくこの。いや、そんなことよりも、ご説明を続けさせていただきましょう」浮田は大助が開いているページを指さした。「これが真空ポンプ、及びそれに付随する設備でございまして、最も高くつきました機械のうちのひとつでございますが」 「真空ポンプだって」大助はふと顔をあげ、考えこむ眼つきをした。 「はい。何かご不審がございますか」 「いやいや。そうじゃないんです。今ちょっと思いついたことがあって」大助は立ちあがり、部屋の中を歩きまわった。  ノックをし、また鈴江が入ってきた。「猿渡さまとおっしゃるかたがお見えでございます。あのう、ご友人だとかで」 「ああ。彼ならすぐ通してください」大助はそう鈴江に命じてから振り返り、浮田にいった。 「浮田さん。この帳簿はゆっくり拝見させてもらいます」 「は。あの、ゆっくり。そうですか。お目通し願えますか。それはありがとうございます」嬉しそうにそういって浮田は深ぶかと頭を下げ、部屋を出ていった。 「ほう。ここは同じようになっているな」入れ違いに部屋へ入ってくるなりドアの鍵の状態を調べ、猿渡がそういった。「少し型が違うが、何もかも同じにすると江草が怪しむだろう。機能が同じならいいわけだ。ほほう。坪数も似たようなものだ。うん。机の位置はその辺と。冷暖房のダクトはそこと」大助を無視してしばらく室内を調べまわってから、猿渡はどさっとソファに腰をおろした。「参ったよ。いくら考えてもトリックがわからん。あの江草竜雄というのはおそろしく悪知恵のあるやつに違いないぜ。それだけの頭を商売の方へ使えばいいと思うんだがね」 「その江草が、今夜やってくるよ」  大助がそういうと、猿渡はとびあがるように立ちあがった。「とうとう連絡してきたか。よし。早速キャップに報告してこよう。むろん今夜すぐに君を殺そうとはするまいが一応は警戒を」  帰りかけた猿渡を、大助はあわてて呼びとめた。「まあ待てよ。あいかわらずだな君は。ちょっと相談に乗ってほしい」 「えっ。何かわかったことがあるのか」 「わかりかけているんだがね」大助は考えながらゆっくりと喋《しゃべ》った。「真空鋳造には真空ポンプを使う。この真空ポンプを利用して密室殺人ができなかったかと思うんだ。じつはさっき鶴岡さんがやってきて、事件当夜江草は」  猿渡は大きくうなずいた。「大型車で来たらしいっていうんだろ。そのことなら今、階下《した》で聞いた。で、真空ポンプというのはそんなに簡単にトラックに乗せて運べるようなものなのか」 「運べないだろうね」大助はかぶりを振った。「共犯者がいたとしても、二、三人じゃ無理だ」 「もっと大勢で運んできたとして」猿渡は少し考えてからドアの方を振り返った。「階下からそのドアまで.パイプをひき、あの鍵穴にくっつける。そしてこの部屋の空気を吸い出す。すると」猿渡も大きくかぶりを振った。「やっぱり駄目だろうな。気圧の問題があるよ。完全な気密室ででもない限り、気圧はそんなに簡単に低下しない。空気は必ずどこかから入ってくる。この部屋にはダクトも通ってるしわ。その上、たとえ気圧が半分になっても人間は死なないんだ」 「わかったぞ」一瞬眼を見ひらいてそう叫んでから、大助はにやりと笑った。「たしかに奴は共犯者と、トラックで何かを運んできた。そして鍵穴まで。パイプをひいたことも確かだ。しかし運んできたものは真空ポンプじゃない。他のものだ」  猿渡も、はっとした顔で膝《ひざ》を叩いた。「そうだったのか。おれにもわかったぞ」 「さて。いかがですか」大助が読者の方を振り返って喋りはじめた。「真空ポンプでないとすると、他の何を使って密室殺人を行なったのでしょうか。手がかりは洗いざらい提出しましたから、読者の皆さんにも、もうすべておわかりのことと思います。ほとんどの皆さんにトリックがわかってしまっている以上、解決までの経過がながながしくてはご退屈と思いますので、ここで一挙に事件解決の日まで時間をとび超えることにいたします。本来ならば今夜これから、容疑者の江草が様子をさぐりにやってきますし、犯行当夜までにもう二、三度やってくるわけでありますが、そういうところはくだくだしいのですべて省略いたします。ただ、少しはその後の経過をお話しておきましょう。江草というのは想像しておりましたようにたいへんいやな男で、いや味以外のことを喋ったのでは馬鹿と思われるに違いないと、そう本気で信じ込んでいるような、世間にちょいちょいあるああいったタイプの人間でありました。わたしからいろいろなことを聞き出そうとするあい間にものべついや味をいい続け、やれ大学教育を受けたひとは同業者間の仁義をご存じないだの、暴利をむさぼる方がダンピングに比べてまだしも罪がないだの、いろんなことを申しました。やがて二、三度くる間に彼はわたしが宮本社長とたいへんよく似た習慣を持っていること、この社長室の状態が以前の犯行現場である宮本社長の部屋の状態にたいへんよく似ていることなどに気づきはじめた様子でした。といって、似すぎていることに疑念を抱いたわけでもなさそうであります。これはつまり、自分が行うべき悪事にとって都合のよいことだけしか眼に入らないという悪人特有の精神構造ででもありましょうか。即《すなわ》ち、わたしが葉巻を喫うたびに眼を光らせ、季節柄冷暖房のダクトは使われていないということを知って舌なめずりし、退社時間後もわたしがひとりカセットの音楽を聞きながら社長室で残業することを聞き出しては顔を輝かせるといった具合に、彼の殺意、彼の犯行計画がますます固まっていく様子を態度で露骨に示しはじめたのであります。ではそろそろ大団円に移りましょう。といっても江草がこの夜、実際に犯罪を行うかどうかは彼が来るまでわたしは知らなかったのであります。ですから江草が今夜訪問したいという電話をかけてきた直後、わたしはいつものように県警本部へ現場付近に張り込んでいてくれるよう連絡しただけだったのでありますが、夜八時半、一階守衛室の鶴岡刑事から、どうやら江草はトラックでやってきた様子なので警戒するようにとの電話があり、それではじめて彼のその夜の目的を知りました。彼は時間通りわたしの部屋にやってきました。特になんの要件もないのだがと前置きして、これもいつものようにわたしの会社のダンピングを詰《なじ》ったり経営の苦しさを訴えたりといった泣きごとをしばらく続け、三十分ほどのちに、やっとソファから立ちあがったのであります」 「これはこれは。とんだお喋りをしてしまいましたな。ご研究でいろいろとおいそがしいところを」いや味たっぷりの言いかたをしながら、でっぷり肥った江草竜雄がゆっくりとソファから立ちあがり、しばらく前に大助が捨てた灰皿の葉巻の喫殻が完全に消えているかどうかをちらと見て確かめてからドアの方へ歩き出した。  大助はドアまで彼のあとを追い、もう一度江草と挨拶を交わしてからドアを閉じて鍵をかけ、おそらくドアの彼方《かなた》で耳をすましているであろう江草にもよく聞えるようにわざと大きな音を立てて、かちりと夜錠《ナイトラッチ》をおろした。それからいそぎ足にデスクへ引き返し、夜は守衛宅と直通になっている社内電話をとりあげ、声を殺した。「鶴岡さん。江草が今、社長室を出ました」 「わかった。わたしはここで待機し、エレベーターを停めておく。キャップには階段からあがってもらう」鶴岡の緊張した声がそう応じた。「くれぐれも気をつけてな」  同じ時刻、興和鋳造の社屋の向い側にある小さな雑貨店のシャッター前に身をひそめていた狐塚は、社屋の三階を見あげてきらりと眼を光らせた。「おい。江草が窓を開けたぞ」  隣りに立っている布引も、社屋前のトラックをうかがいながら身を固くした。「やっぱりあいつだった。運転席にいた江草の義弟の、あの八坂というやつが荷台にあがりましたよ」 「江草が三階から紐《ひも》を垂らしたぞ。何かを吊りあげるつもりだな」 「ホースでしょう。ほら。ほら。やっぱりそうです。八坂が荷台でボンベを立てました。紐に、ホースの先を結わえています。やっぱりあれは酸素です。猿渡君の言った通りです」  狐塚は口惜《くや》しげ唸《うな》った。「酸素に気がつかなかったとはな」 「あいつらは、取扱いの免許を持っているんでしょうか」 「そりゃ持ってるだろう。金属の溶接や切断にはどうしても酸素が必要だ」  江草はホースの先端を三階までたぐり寄せ、窓ぎわから姿を消した。トラックの荷台の上では、江草の義弟の八坂という若い男がホースの末端を酸素ボンベの容器弁《バルブ》にとりつけ、専用のハンドルで弁棒《スピンドル》をまわしはじめた。  三階の窓ぎわ、応接ロビーの片隅では、ソファのうしろに猿渡が身をひそめて江草の行動をじっと見張っていた。江草はホースの先端を持って社長室のドアにとって返し、吸盤状になった噴出口をぴったりと鍵穴に押しあてた。  その頃、社長宅の中では大助がロッカーから出した耐火服を背広の上から大いそぎで着はじめていた。鍵穴からの酸素の噴出音はスピーカーから出るカセットの音楽によって消されてしまい、ふつう二十一パーセントといわれる空気中の酸素濃度は、すでにどんどん上がりはじめている筈であった。大助は江草の犯行をより忠実に再現させるため、警察の同僚たちにも話していないきわめて危険な行動をとろうとしていた。酸素濃度が三十パーセントに近づくと物は燃えやすくなり、非常に危険な状態になるのだが、大助が耐火帽を被り終えた時、室内の酸素はその三十パーセントをとっくに超過していた。  江草竜雄はちらと腕時計を見て鍵穴から噴出口をひきはなし、窓ぎわまでホースを引きずってきて、ふたたび紐を使って吊りおろした。もと通りガラス窓を閉じ、彼はエレベーターの前へ行ってボタンを押した。  ボタンは点灯せず、あわてて見あげた階数表示板の明りも消えていた。 「いよっ」何かの気配を感じとり、江草はおどろいてロビーを振り返った。  ソファのうしろに、猿渡刑事が立っていた。 「ひい」軽い悲鳴を洩らし、江草は階段室の方へ走り寄ろうとした。  階段室のドアが中から開き、鎌倉警部が出てきて、立ちすくんだ江草に指をつきつけた。 「江草竜雄。殺人容疑並びに第四類危険物取扱違反で逮捕する」 「知らん。わたしは知らん。何も知らん」江草は今にも泣き出しそうに顔を歪《ゆが》め、へたへたと床にしゃがみこんだ。「わたしはもう、何も知らん」  大助は耐火帽の前面の、透明の覆いをあげて葉巻を口にくわえた。そしてライターを出した。  しゅばっ、という音とともに大きく炎が噴きあげ、葉巻がめらめらと燃えあがった。大助が葉巻をとり落すと火はたちまちカーペットを敷きつめた床全体に燃えひろがり、机が、椅子が、その他の備品がいっせいに炎に包まれた。耐火服を着ていなければ大助の背広も、勢いよく燃えあがっているに違いなかった。炎の中を、大助はドアの方へ突っ走った。夜錠《ナイトラッチ》をはずし、鍵をあけ、炎や火の粉と共に彼はロビーへころがり出た。  ロビーの片隅で悲鳴があがり、大助を心配していつの間にか身をひそめていた鈴江がソファのうしろで立ちあがった。「大助さん」 「猿渡君。消火を手伝ってくれ」大助はロビーの隅に用意しておいた数本の消火器を指さしながら駈け寄り、中の一本をかかえあげて社長室のドアの前まで引き返した。  鎌倉警部がこの騒ぎに気をとられている隙をうかがい、江草は階段室へ逃げこんだ。 「あっ。逃げましたよ」猿渡が消火器をかかえあげながら叫んだ。 「馬鹿め。逃げられるもんか。一階には鶴岡君たちがいる」  鎌倉警部と鈴江も、消火作業を手伝いはじめた。  火が消えた時、社長宅とロビーの床は消火液の泡《あわ》で洪水のようになっていた。 「神戸君。君はなぜこんな無茶をしたのかね」鎌倉警部は額の汗を手の甲で拭いながら大助に咎《とが》める眼を向けた。 「江草がやった犯罪行為の証拠を、よりのっぴきならぬ確実なものにし、彼が言いのがれることのできないようにするためです。勝手にこんな冒険をして申しわけありません」大助は耐火帽をとりながらそういった。 「無茶ですわ。もし咄嗟に鍵がうまく開かなかったらどうなさるおつもりだったの」全身びしょ濡れの鈴江が、おろおろ声で叫んだ。「あなた、丸焼けじゃありませんか」 「君こそどうして、そんなところへ隠れていたんだ」と、大助も鈴江に言い返した。「江草に発見されたら、殺されていたかもしれないんだよ」  じっと大助を見つめる恨めしげな鈴江の眼にたちまち涙があふれ出た。彼女はしゃくりあげ、鎌倉警部や猿渡の前であることも忘れ、声を出して泣きはじめた。「わたしがあなたのことを心配してここへ隠れていた気持なんか、ちっともわかってくださいませんのね。わたしがお邸でじっとしていられなかった気持、どうしてあなたにはおわかりになっていただけませんの。それはもう、わたしがどれだけ痩せる思いでいたか。それなのにあなたったら、こんな乱暴なことを。乱暴なことを」  泣き続ける鈴江を男たち三人が茫然として眺めていると、エレベーターのドアが開いて鶴岡が出てきた。「これは何ごとですか」 「神戸君が向う見ずをやった。それよりも江草はどうした」 「階下で捕え、狐塚君たちに引き渡しました。トラックの八坂も逮捕しました。今、狐塚君と布引君が署へ連行しております」 「署長には報告したかね」 「先ほど電話いたしました」 「そうか」鎌倉警部はにっこり笑い、部下たちの顔を見まわした。「とにかくこれで事件は解決した。おめでとう」 「おめでとうございます」 「おめでとうございます」 「おめでとさん。おめでとさん」エレベーターのドアが開き、中から署長が踊りながら出てきた。 「これは署長」 「いよう諸君。無事解決してよかったな。あまり解決が長びくので、ずいぶん心配したぞ。このまま迷宮入りかと思ってな」  とびあがり、思わず拳銃をとり出そうとした鎌倉警部は、相手が署長であることに気づいてやっと思いとどまり、気をとりなおして大助に向きなおった。「ところで神戸君。事件は解決したが君はこの会社をどうするつもりかね。まさかこのまま抛《ほう》っとくわけにもいかんだろう」  大助は答えた。「ぼくがいなくても誰かがやってくれるとは思うんですが、雇い入れた従業員や得意先に対する社会的責任もあります。赤字覚悟でやり出した会社ですからいずれは解散しますが、もう少しあと始末をさせてください。もちろん、できるだけ早く署へは戻るつもりです」  それから約一カ月後、会社の収支を報告するため神戸邸内の一室、喜久右衛門の書斎に顔を揃《そろ》えた大助、榎本博士、菊田営業謀長、浮田経理課長の四人は、烈火の如く憤《おこ》った喜久右衛門老人から嵐のような罵倒《ばとう》を浴び、首をすくめていた。「ここな親不孝者め。この裏切り者めら。なんというなさけないことをしてくれた。なんじゃと。く、く、黒字になったじゃと。儲かったじゃと。馬鹿者ども。誰が儲けてくれいと頼んだか。わしゃ赤字にせいと言うた筈じゃ。なんじゃと。く、く、黒字でその上、製品が評判で外国からも引き合いが来ておるじゃと。それではいずれ大企業になってしまうではないか。こいつらめ。性態りもなく昔と同じようなことをくり返しおって。この老人の荷をこれ以上重くしようというのか。なんということをする。ええい。ここな裏切り者めらが。この親不孝者。お前はすぐ社長をやめい。ええいくびじゃくびじゃ。この親不孝者めが。親不孝者めが」 [#改ページ] [#見出し]  富豪刑事のスティング  フラージパーネを食べ終りウガンダ・ロブスターをひと口味わってから神戸大助《かんべだいすけ》はいった。 「そうらご覧なさい。今日は食べ終るまでに事件発生の電話はなかったでしょう」 「ほんとに、初めてのことですわ」微笑し、浜田鈴江はいった。「大助さまと二人だけでお食事をしようと計画しましたことが今までに七回、そのうち、お邸を出るまでに警察からお電話があって、予約を取り消したことが三回、ホテルの、このレストランへ着くなりあの背の高いボーイ長さんがとんできて、すぐ本署にご連絡下さいって言われてしまったことが二回、スープの途中とオードブルの途中で電話がかかってきてお食事を中断したことがそれぞれ一回」  鈴江の、ひどくのんびりした、波が大きくうねっているような喋《しゃべ》りかたは、一八九八年のシャトオ・マルゴーでいささか酔っている大助をさらに夢心地にさせた。「よく憶《おぼ》えていますね」  ゆっくり話しあえる初めての機会だったが、話すべきことや、彼女に訊ねるべきことはひとつもなかった。それは父の秘書としての彼女と常に接していたからではなく、もともと彼女と自分の間には最初から、黙っているだけで通じあえるものがあったからだろう、と、大助は思った。うん。そうだ。そうに違いないぞ。  大助の思考を読み取ったかの如く、鈴江がにっこり笑った。「このあとは、どこへ連れていっていただけますの」  今夜、彼女と完全に結ばれてしまいそうな予感がますます現実に近づいてきたため、大助はちょっとどぎまぎした。それはまた、同様の予感がある筈なのに落ちつきはらっている鈴江から、強く迫ってくるものを感じたためでもあった。 「このあと『カヤック』に席をとってあります。『テラコッタ』も予約しています。どちらも飲んで踊れる店で、上品で踊りやすいのは『テラコッタ』の方ですが、『カヤック』の方には今夜サミー・デイヴィス・ジュニアが来ています。どちらにしますか」  鈴江が少し強く眼をぱちぱちさせ、大助を見つめたので、また例によって自分が彼女の生活感情の常識を乱すようなことを言ったのかと思い、大助はちょっとげっそりした。以前、同僚の猿渡刑事が、大助の電話を横で聞いていて、「君は昼食をとるにも酒を飲むにもいちいち予約したり席をとったりするのか」と、大助のブルジョア性を非難する調子も含め、ややあきれ声でそういったことがある。しかし大助にしてみればどうしてすべての人間が予約という便利な習慣を利用しないのか不思議でしかたがないのだ。大助にとって食事をするために待たねばならないというのは、犬の世界に|おあずけ《ヽヽヽヽ》があるのと同様、はなはだ原始的なことであった。また大学時代には、どこのレストランに入っても必ずフルコースの料理をとらねば気がすまず、友人に笑われたことがあった。これも大助にしてみれば、それはたとえば和食に味噌汁や漬けものや茶が欠かせないのと同じことで、逆に一品料理という非常食をなぜわざわざレストランに足を運んできてまで食わねばならないのかが理解できなかったのである。  しかし鈴江が眼をしばたいたのは、ただ、大助がどちらへ行きたがっているかを考えるためだった。「歌はお嫌いでしょ。『テラコッタ』へ参りましょうか」  大助たちは勘定を払わずにレストランを出た。大助の父の喜久右衛門がこのホテルの持ち主なので、しぜん大助もこのホテルを利用する頻度《ひんど》が高く、どうせ月末には一括して多額の請求書が送られてくる。  二十坪ほどの一階ロビーは結婚披露宴の客でいっぱいだった。酒の匂いのただよう人混《ひとご》みを抜けてホテルのポーチを出ると町の中心の高級商店街で、その大きな通りは国鉄の駅まで一直線にのびている。 「駐車場まで、またちょっと歩いてください」と、大助はいった。ホテルの地下駐車場が満車だったので、少し離れたところにある知りあいの時計屋の駐車場に車を置かせてもらったのである。 「大安吉日だったのでしょうね」と、歩きながら鈴江がいった。「でも、あんなに何組もの人たちと一緒じゃ」厭《いや》だわと言いかけて鈴江は顔を赤くした。 「そうですね。いやですね」自分の結嬉披露宴のことなどさほど真剣に考えたことがないので、大助は無表情に同意した。 [#挿絵(img/121.jpg)]  この町には似つかわしくないほどの高級な品物を売る店が数十軒続いていて、そのはずれに時計店と、その駐車場があった。大助が駐車場の入口近くに駐車しておいたキャデラックの横には二人の若い男が立ち、ガラス越しに運転席をのぞきこみながら何か話していた。ふたりともリーゼント型の長髪で背が高く、ひとりは背中に赤い竜を描いた黒いジャンパーを着ていた。大助たちが近づいていくと、ふたりはさりげなく車から離れミンクのハーフコートを着た鈴江の方を、品定めする眼で何度も振り返り、にやにや笑いながら通りへ出て行った。  時計店の親爺《おやじ》が店の窓ガラス越しに大助たちの方を心配顔で眺めていた。大助は鈴江をうながし、いったん通りへ出てから明治二十三年創業を誇る古い時計店に入った。 「さっきからあの二人がずっとお車にへばりついておりましたが」と、親爺はいった。「あのお車に別条はございませんでしたか」 「なかったようだ」と、大助は答えた。 「最近、この辺の駐車場にとめてある車のアンテナをねじ曲げたりへし折ったり、車体にナイフで傷をつけたりする奴がいます」宝石を並べたショウ・ケースの向うで親爺は眼を見ひらき、そういった。「わたしは、あのふたりだと睨《にら》んどるのです」 「このひとの誕生日は今月なんだけと」葉巻を出してくわえながら、大助は親爺に訊ねた。 「トルコ石のいい指輪があるかい」 「まあ。トルコ石なら持っています」  あわててそう言った鈴江を振り返り、大助はにやりと笑った。「女学生時代からの小さいやつをね。あれは、おもちゃだ」 「トルコ石なら、最高級品でしかも造りのいい指輪が入っております」親爺がいそいそと宝石のケースを出し、ショウ・ケースの上に並べはじめた。「ラピス・ラズリも、いいものがございまして」  鈴江に有無を言わせず大助はトルコ石の指輪を買い、その場で彼女に贈った。  ふたりが駐車場に戻ると、さっきの若者たちが今度は大っぴらにキャデラックのボンネットの上に並んで腰かけていた。ワイパーが根もとからねじ曲げられていた。彼らはナイフをもて弄《あそ》びながら、近づいてくる大助たちの方へ口を半開きにし人を小馬鹿にしたような表情を向けてにやにや笑っていた。 「まあひどい」鈴江がワイパーを見、ボンネットについたナイフの傷を指さきでなぞりながら悲しげに叫んだ。「ひと月前に買い替えたばかりなのに」 「この辺の駐車場の車にいたずらしているのはお前たちか」と、大助は若者たちに訊ねた。 「だったら、どうなんだい」白痴的な笑みをそのままに、黒ジャンパーの若者が訊ね返した。 「もしそうなら、警察へ行ってもらわなきゃね」  大助がそう言うなり、黒ジャンパーがもうひとりの若者の方を振り返り、大声でいった。 「ほうら。な。言った通りだろ。こういう金持ち面《づら》したやつほど、すぐに警察、警察ってわめきやがるんだ。自分たちこそ悪いことして金を儲《もう》けた癖によう」  暗い眼つきをしたもうひとりの若者が、挑戦的に言った。「お前、おれたちをどうやって警察へつれて行くつもりだよ」ナイフで、強くボンネットを突いた。「この事に乗せて行くつもりか。ええおい」がりがりがり、と、ナイフでボンネットを引っ掻《か》いた。「この辺に、偉そうに駐車してやがる高級車に、こうやって、こういう具合にして、ナイフで傷をつけてやってるのはおれたちだよ。それがどうしたい。さあ。警察へつれて行けるもんならつれて行って見ろよ」 「鈴江さん。すみませんが、あなたが運転してください」そう言って大助は、後部ドアを開いた。「よし。じゃあ、おとなしくここへ乗れ。警察はすぐそこだ」 「なんだよ。その言いかたは」怒りに眼を光らせ、ふたりの若者は脅迫的にナイフを見せびらかしながらボンネットからおりて大助に近寄った。「びくびくしてやがる癖に、強がりやがって」 「偉そうにぬかしやがると、車どころかお前の顔に傷をつけるぜ」  黒ジャンパーが大助の口から葉巻をはらい落した。「おとなしく乗れたあなんだよ。金持ち面して、ひとに命令しやがって」 「警察がすぐそこだとは、どういうことだよう。え。刑事でもねえ癖に」 「わたしは刑事だよ」と、大助はいった。  一瞬、ぎく、としてから若者たちが笑いはじめた。「嘘つきやがれ」 「さあ。早く乗れ。抵抗すると公務執行妨害で罪が重くなる」大助はそう言いながら二人に警察手帳を見せた。 「おーっ」  あわてて逃げようとした黒ジャンパーの足をはらって転倒させ、大助はもうひとりの若者の腕をねじあげて、ナイフをとりあげてから後部座席へ押しこんだ。その間たった五秒の早業だった。 「さあ。お前も乗れ」大助は駐車場のコンクリートの上へ這《は》いつくばっている黒ジャンパーにいった。「逃げても無駄だ。いずれつかまる」  中腰のまま、逃げようかどうしようかと考えていた黒ジャンパーが、急におろおろ声で叫びはじめた。「堪忍してくれよ。今日はじめてやったんだ。本当だよ」  自分も後部座席に乗りこみながら、大助は冷たく言った。「来るのか来ないのか」  男ジャンパーは、後部座席の隅ですっかりあきらめた様子の仲間を指さした。「だって、そいつをつれて行くんだろう」 「ああ」 「じゃ、おれも行くよ」黒ジャンパーはしぶしぶ大助の隣りへ乗りこんできた。 「友達思いだな」大助はそう言って笑い、運転席についた鈴江に声をかけた。「すみません。ちょっと本署まで行ってください」  インナー・ミラー越しに大助を睨んだ鈴江を、大助は申しわけなさそうにそっと片手で拝んだ。車は大通りへ出た。 「だってよう、刑事がこんな最新型のキャデラックに乗ってるなんて思わねえじゃねえか。そうだろ」黒ジャンパーが涙声で弁解し続けた。  未成年だな、と、大助は思った。 「くそっ。こんな馬鹿な」彼は泣き出した。「刑事の癖によう、どうして葉巻なんかふかしてミンクのコート着た女に宝石買ってやったりするんだよう。なぜ刑事|風情《ふぜい》がそんな金、持ってるんだよう。ややこしいんだよ。くそ」泣き続けた。 「世の中ややこしいんだ。わかったか」と、大助はいった。  突然真顔に戻り、黒ジャンパーはつぶやいた。「世の中がややこしいなんて、誰も教えてくれなかったよ」ぐしゃり、と真顔を崩壊させて、また泣き出した。「おれはそれを知らなかったんだあ」 「正気に戻れよ。馬鹿」暗い限つきをした少年が吐き捨てるようにそう言い、鈴江の方へ顎《あご》をしゃくった。「この女、婦警かい」 「まあ。光栄だわ」と、鈴江はいった。  警察の駐車場にキャデラックを停め、鈴江を車内に待たせておいて大助はふたりの少年を署の二階にある防犯課へ連行した。少年係の丸賀という、丸顔をした童顔の刑事にふたりをひき渡そうとした時、それまでむっつりと何ごとか考えこんでいた陰惨な眼つきの少年が抗議しはじめた。「これは囮《おとり》捜査だ。そうだろ」彼は胸をはり、わざと周囲の刑事たちにも聞えるような大声で言った。「最近また問題になってるやつだ。おれ、新聞に投書してやるぞ。おれたちが反感を持つようにわざと金持ちのふりして、わざわざ美人の婦警にミンクのコートを着せて、最新型のキャデラックに乗って、おれたちがいたずらしやすいように仕向けやがったんだ。はじめっから、おれたちをつかまえるつもりだったんだ。警察がよう、おれたちに悪いことさせようとたくらんで、そんな芝居なんかしていいのかよう。おれ、問題にしてやるからな。問題にして」部屋中の刑事がげらげら笑いはじめたので、彼はびっくりして周囲を見まわした。「なんだよ。何がおかしいんだい」 「この人はほんとに富豪なんだよ」丸賀刑事が笑いながらいった。「この刑事さんがくわえているこの葉巻はな、わざわざハバナから取り寄せた、一本八千五百円もするやつだ」  たまたま傍《そば》にいた早野というやはり少年係のでっぷり肥った婦警が、面白がってつけ加えた。「その人が今つけているその腕時計はね、ローレックス・スペシャルっていって二百五十万円するの。その人が持っている二十個ほどの腕時計の中では、それがいちばん安物なのよ」 「もう勘弁してください」大助は顔を赤らめ、照れかくしのように少年たちを睨んだ。「言っておくが、ぼくの連れの女性は婦警さんじゃなく、ぼくのデートの相手だ。ついでにいうと、ぼくは今日は非番だ。しかも防犯課の刑事じゃない。刑事課捜査係の者だ。わかったかね」そう言ってから、大助は大いそぎで防犯課の部屋を出た。 「そんな金持ちが刑事をやるなんて、犯罪だ」少年たちが背後で、やぶれかぶれの大声をはりあげていた。「金持ちだというだけでも犯罪なのに、刑事をやるなんて、犯罪の自乗だあ」  当然、そういう考えかたがあっても不思議はないなと思いながら廊下を歩いていた大助の前に、猿渡刑事が立ちふさがった。「おいっ。神戸君。君は非番じゃなかったのか」 「悪い子供を見つけてつれてきたんだが」同僚の顔つきと態度から、大助はすぐに重大事件の発生を嗅ぎとった。「何があった」 「誘拐だ。今、捜査本部が設けられた。キャップは誘拐事件のベテラン飛騨《ひだ》警部で、警部はもうじき到着する。これから捜査会議がある」 「おれも出る」と、大助は叫んだ。 「あいかわらずだな」猿渡が苦笑した。「まあいいだろう。どうせ手が足りなくなって招集されるんだものな」  捜査本部にあてられた部屋には、すでに刑事たちが集まっていて、狐塚刑事がいつもの如く、全身が神経中枢になったような喋りかたで事件の経過を説明していた。「で、誘拐されたのはこの高森陽一氏のひとり息子映一君六歳だ。小学校一年生だ。昨日学校からなかなか帰ってこないので心配していたら、午後の三時に男の声で電話があった。明日の朝、つまり今朝のことであるが、八時半に国鉄の駅の裏にある公園へ現金で五百万円持ってこいという電話だ」  たったの五百万円かと大声で叫びそうになり、大助は怒りの苦い唾をのみこんだ。子供ひとりの命が五百万円とは、まったく人命軽視も甚《はなはだ》だしいと思ったからであったが、やがて五百万円が自分の給料の一年と数カ月分に相当することを悟り、今度は複雑な気分でううんと呻《うめ》いた。それから、何がなにやら、よくわからなくなった。いつになっても大助の金銭感覚は彼の巨額の財産と低収入の両極端の間にある広い空間のどこに落ちつくこともできないのだ。 「例によって『警察へ連絡したら子供の命はないものと思え』ということだったので、高森氏は警察に電話しなかった。ちょうど自分が経営している会社の金庫に従業員の給料が五百万円足らずあったから、これに自分の金を足して鞄に入れ、今朝、駅の裏の公園へひとりで行った。八時半きっかりに、サングラスにマスクという犯人らしい男があらわれ、鞄《かばん》をひったくり、追う間もなく駅の構内の雑踏に姿を消した。ところが高森氏が家へ戻っていくら待っても映一君はなかなか帰ってこない。そして午後の一時にまた犯人から電話があった。もう五百万円用意しろという電話だ。味を占めたんだな。高森氏、とうとうたまりかねて警察へ電話してきた。電話してきたのがつい先刻、五時頃だったから、気の毒に四時間ほど悩み抜いたのだろう」 「その後、犯人から連絡はあったのかね」鶴岡刑事が学者じみた顔を曇らせ、手帳に何か書き込みながら狐塚に訊ねた。 「ありません」狐塚は鶴岡に向きなおり、口調を少し改めてそう答えた。「今、布引君に被害者宅へ行かせておりますが、まだ何の連絡もありません」狐塚は全員に向い、尖《とが》った犬歯を見せてにやりと笑った。「布引君に行ってもらった理由は、被害者宅が犯人に見張られているおそれがあるためだ。つまり、布引君がわれわれの中ではいちばん刑事らしくないからだ」  ずんぐりむっくりで童顔という布引刑事の風貌《ふうぼう》を思い出し、一同がくすくす笑った。 「電話があってすぐ、布引君にはガス工事人の恰好をして行ってもらった。もちろん、ガス工事人がそんなに長時間被害者宅に居続けるのはおかしいので、いずれは誰かと交代してもらわねばならないわけであるが」 「あたり前だ」怒鳴るような声でそう言い、グレン・フォードそっくりの顔をした飛騨警部が部屋に入ってきた。「なぜガス工事人などに化けさせた。もし犯人が見張っていたとしたら、十中八九警察が動き出したことを勘づかれている」 「これはキャップ」全員が椅子から立ちあがった。 「しかしキャップ」狐塚がむっとし、不満そうな口調で言った。「ガス工事人以外に、手っとり早く化けられる適当な職業が他《ほか》にはありませんでしたので」 「だからこそ、誘拐事件というと刑事はガス工事人に化ける。凡庸な作家の書く推理小説はもとより、映画でもテレビでも誘拐だというと刑事が化けるのは必ずガス工事人だ。それが今や常識になっとる。もう少し頭を使え頭を」眼をぎょろりとさせて飛騨キャップは全員を睨《ね》めまわした。「今、駐車場に停《とま》っているあの真《ま》っ赤《か》っ赤《か》のキャデラックは誰の車か知らんか」 「ぼくの、いえ、わたしのであります」たまたま入口近く、飛騨キャップのすぐ隣りに立っていた大助が、しゃちょこばって答えた。 「君だな。富豪刑事とか言うのは」飛騨キャップはコートを着たままの大助を頭から靴の先までじろじろと眺めまわしてそう言った。「じゃ、あの車の中にいるミンクのコートを着たとびきりの美人は誰だ。あれも君の」 「いえ。あれはわたしのものではなく。いえあの。その」大助はしどろもどろで説明した。 「あれはわたしの父の秘書でありまして、あの、今日わたしはだいたいがその非番なのであの、時計屋で非行少年を見つけたために」 「何を言うておるか」飛騨キャップは顔をしかめた。「ちっともわからん。とにかく、あの女性にわけを話して同行してもらい、真っ赤っ赤のキャデラックで被害者宅へ乗りつけろ。犯人が見ておったとしても、まさか刑事とは思わんだろ。被害者宅へ行くことになっとるのは誰か」 「わたしです」猿渡が浮きうきしてそう叫んだ。「盗聴器、逆探知磯、テープレコーダーなどはもう用意いたしました。機械の操作をする専門の者も、すでに待機しております」 「よし。すぐに行け」  猿渡へそう命じた飛騨キャップに、大助はあわてて言った。「わたしが一緒に行ってはいけませんか」 「君には他に、やってもらうことがあると思うよ」狐塚がにやにや笑いながら意地悪く口をはさんだ。「非番らしいが、ここへやってきた限りは休日返上だ。命令に従ってもらうよ」 「この、上等のコートを借りて行け」飛騨キャップが大助のコートの衿《えり》をつまんで引っぱった。「できるだけ金持ちのプレイボーイらしい態度で乗りつけるんだぞ。犯人が見ても親戚か何かが金でも持ってきたのだろうと思う筈だ」 「悪いな」否応なしに大助からコートを剥《は》ぎ取って着込みながら、猿渡がウインクした。「鈴江さんならぼくも顔見知りだ。事情をぼくから話して頼んでみる。高森邸まで、君のかわりをしてドライヴだ」 「そりゃまあ、いやとは言うまいがね」しかし彼女、怒るだろうな、と、大助は思った。 「だけど、もともとは君が悪いんだぜ。駐車場に鈴江さんを抛《ほ》ったらかしたままこの会議に出席したりした罰だよ」猿渡はちょっと気の毒そうにそう言ってから、部屋を出て行った。 「他の者は狐塚君を中心として、駅周辺の聞き込みにまわってくれ」飛騨キャップが中央のデスクにつき、てきぱきと命令しはじめた。「サングラスにマスクという風態《ふうてい》なら、駅員の誰かが憶えている筈だ」 「飛騨さん。わたしには、高森氏の経営している会社の方へ行かせてほしいんですがね」警部とは顔馴染《かおなじみ》らしい鶴岡がそう言った。「第一回目の犯人の要求額が、会社の金庫にあった現金の額とぴったりだ。内部の事情を知っている者の犯行とも考えられますので」 「いいでしょう」キャップは腕時計を見た。「まだ社員の誰かが残っているかもしれませんな。そこにいる富豪刑事をつれて行ってください」 「その、富豪刑事というのはやめていただけませんか」  大助が不満を洩らすと、飛騨キャップははじめてにやにや笑った。「まあ、そう怒るな」  捜査活動が始まった。  何組もの刑事たちによる捜査活動の同時性を文章に表現することは不可能である。しかしここは、読者の混乱をあまり考慮せず、できるだけその同時性に近づいてみよう。ある刑事が捜査活動を進めている間、他の連中が遊んでいたのではないということを表現するためであるが、その効果について責任を持つことはできない。  猿渡たちは鈴江の運転するキャデラックで町はずれの住宅地にある高森邸に着いた。いかにも身のまわり品らしく見せかけて旅行鞄に納めた機器類を、猿渡と、もうひとり機器操作担当員が車寄せから邸内に運びこんだ。  その二人に続いて鈴江が一緒に高森邸に入ったとほとんど同時刻、駅の構内の一角では狐塚刑事がひとりの駅員に訊ねていた。 「今朝の八時半ごろなんだがね。どうだね。そういう男を見かけなかったかね」 「ちょうど混雑時《ラッシュアワー》だなあ」駅員は申しわけなさそうにかぶりを振った。「その時間というのはねえ、上り下りの列車が交代で、ほとんどひっきりなしに到着して、構内はこの駅の周辺のオフィス・ビルへ出勤するサラリーマンでいっぱいなんだよ」  さては八時半という時間指定がラッシュ・アワーを勘定に入れての犯人の悪知恵であったのかと気づき、狐塚が口惜《くや》しがっているとほとんど同時刻、鶴岡刑事と神戸大助は下町の小工場地帯の道路を、道ばたに停めてあるオート三輪やトラックに行く手を阻まれては迂回しながら高森建設金属製造株式会社の工場兼社屋へといそいでいた。 「こんなに遅くなっても、まだ、誰か残っているでしょうかねえ」街灯に照らされて光っている水溜《みずたま》りをとび越しながら、大助が言った。 「七時だから、まだ誰か残っているだろう」鶴岡はそういった。「社長が会社の金庫の金を洗いざらい持ち出したんだから、うすうす事情を知っている経理担当者ぐらいは残っている筈だ。第二回目に要求された五百万円の金策だって、やらされているかもしれんよ。それに、給料日も近いそうだしな」 「こういった小工場の経営は、そんなに苦しいんですか」  鶴岡は悲しげな表情で大助に横眼を遣《つか》った。「わたしの父親は、小さな町工場を経営していてついに破産したよ。堅実にやっておったそうだがね。まあ、この不景気な世の中だ。今どき、楽にやっとる町工場など、かぞえるほどしかないんじゃないかねえ」  大助と鶴岡が、すでにシャッターをおろした高森建設金属の前に立ち、横手にある社員通用口のブザーを押したとほぼ同時刻、猿渡たちは高森邸の応接室で、布引刑事から引継ぎ事項を聞いていた。 「犯人から、その後連絡はない」ガス工事人の服装をし、あいかわらず前歯が欠落したままでアルフレッド・E・ニューマンそっくりの布引は、そういって三坪ほどの応接室の隅にある電話を、赤ん坊のようにころころした太い指で差した。「電話はあれだ。あそこにかかってくる」 「では、さっそく」機器操作を担当する男が電話を部屋の中央の大きなテーブルの上へ移し、盗聴装置、逆探知機、録音機などを接続しはじめた。 「現在この家にいるのは、ご主人の高森陽一氏、奥さんの歌子さん、それにお手伝いのばあやがひとり。計三人である。さきほど高森氏と、この次に電話がかかってきた際の応答のしかたを打ちあわせた。犯人に対しては、現在この家にも、また高森氏の会社にも、五百万円の現金はないので、これは事実そうらしいのだが、とにかく、明日銀行が開店するまで金を待ってほしいと頼むことになっている。その会話の過程において引きのばしをはかり、逆探知のための時間をかせぐ」 「わかりました」  猿渡が布引に頷《うなず》き返した時、居間と思える隣室から高森家の主人高森陽一氏が憔悴《しょうすい》しきった様子であらわれた。町工場の社長とは見えぬインテリ風の細おもてである上、いかにも神経の繊細そうな容貌がさらに苦悩に歪《ゆが》んでいて、見るからに痛いたしかった。といっても、ふだんの彼を見知らぬ猿渡や鈴江には、事件発生以来一日余における高森社長の憔悴度を正確にはかることは無論できなかったのであるが。 「わたしの同僚で、これからわたしと交代してくれる猿渡君です」布引が高森に紹介した。 「猿渡です。それからこれが、電話の逆探知などをやってくれる喜多君。それから」猿渡は鈴江の紹介にちょっと困ってもじもじと身をゆすった。「ええと。われわれがここへやってくるための偽装に協力してくださった、浜田鈴江さん。民間のかたであります」  鈴江は高森へ黙礼するだけにとどめた。「このたびはどうも」と言おうとしたのだが、お悔みの出だしの文句であることに気がついたのだ。 「それでは、わたくしはこれで失礼いたします」心ここにない様子の高森に一礼してから、布引は猿渡たちに言った。「じゃ、ぼくはこれから本部に戻って報告する。ガス工事人がいつまでも居すわっていてはおかしいからね」  布引が出ていくと、猿渡はさっそく高森に訊《たず》ねた。「ご心配のこととお察ししますが、奥様はどうなさっておいでですか」  ソファに腰をおろして何ごとか考え続けていた高森が、はじめてそれに気づいたかの如く、はっとして顔をあげ、眼をしばたいた。「居間に、ひとりでおります。まったく何も喋《しゃべ》ろうとしないものですから、ちょっと心配しているのですが」彼は眼を膝に落した。「誰か、話し相手でもいてくれるといいんですがねえ」  猿渡が、ちら、と鈴江の方を見た。  鈴江には、高森夫人の話し相手になれる自信がなかった。何を話していいかわからなかったし、自分に、彼女の張りつめた心を柔らげることができるとはとても思えなかった。それでも、彼女のために何かしてやりたいという気持だけはあった。彼女の傍にいるだけでその気持は伝わるのではないかと思い、また、それだけでも彼女にとっては安らぎになるのではないか、と思った。 「それでは、わたくしがお傍に」  鈴江がそういうと、高森は不安そうな表情で彼女を見つめた。 「お願いします」猿渡がそういって、鈴江に頭を下げた。  鈴江が高森家の、応接室に隣接した食堂兼用の居間へ入って行ったとほぼ同時刻、狐塚は駅の構内にある売店の中年女に質問していた。 「と、まあ、そういった感じの男なんだがね。そいつが相当いそいでここを走っていった筈なんだ」 「知りませんねえ」喋れば喋るほど損害がふえるとでも思っている顔つきで、中年女は無愛想に答えた。 「ちょっと、思い出して貰えんかねえ。八時半を過ぎたくらいの時刻なんだが」  溜息《ためいき》をつきながらそういった狐塚に、商売の邪魔だといわんばかりのふくれっ面《つら》で背を向け、中年女は次つぎと煙草を買いに来る客の応対をさもいそがしげにやって見せた。  あきらめて売店から離れようとした狐塚は、駅の裏手、今朝がた高森社長と犯人の間に金の受け渡しが行われた現場であるその公園全体が、売店からはっきり見渡せることに気づいて立ちどまった。構内の採光のため、売店の向い側の駅舎の壁の一部には天井から床まで透明ガラスが嵌《は》め込まれていたのである。 「あっ」狐塚は振り返り、売店の中年女に大声でもう一度訊ねた。「それなら君、その時間、そのような男があの公園にいるのが見えただろう。いや。見えた筈なんだ。ここからなら見える。君。重大なことなんだがね。その男が誰かと、あそこで話していただろう。え」  いきごんで訊ねる狐塚に、しかし中年女は、客に煙草を渡しながらじろりと白い眼を向けただけだった。  もともとひどい癇癪《かんしゃく》持ちなのに、今まで彼としては珍しくせいいっぱい我慢していた狐塚が、ついにたまりかねて「貴様だいたい警察をどう心得ておるか」と破《わ》れ鐘の如き声で中年女を怒鳴りつけたとほぼ同時刻、神戸大助と鶴岡刑事は高森建設金属にたったひとり残っていた経理担当の女性社員と事務室の一隅で相対していた。 「しばらく会社に残っていてほしいと、つい先刻社長から連絡があったものですから」三十二、三歳と思えるその小柄な女は、古風な顔立ちの美人で、多少舌足らずな喋りかたをした。 「あの、お茶を」  腰を浮かしかけた女を、鶴岡は片手で削した。「いやいや。お話を伺うだけで結構です。昨日、高森社長のお宅へお金を届けられたのはあなたですね」 「はいそうです」女は一礼した。「わたくし、松平めぐみと申します」 「社長は、その金の用途をあなたにおっしゃいましたか」  そう訊ねた鶴岡に、松平めぐみというその女性は眉を少しひそめて見せ、うなずいた。 「坊っちゃんが、あの、誘拐」  大助と鶴岡は高森社長の口の軽さに驚いて顔を見あわせた。 「高森社長が自分で、あなたに直接、そう言ったんですか」  強い口調の大助に、彼女はおどおどした表情を向けた。「はいあの、わたくし、この会社の経理をもう十年やっておりまして、会社の内情をよく知っておりますし、出納をすべてまかされておりますので、ですから社長としても、わたしにだけは本当のことをおっしゃったのだと思います」 「つまり」鶴岡が考えながら言った。「ふつうであればあなたは、よほどの事情ででもない限り、たとえ社長といえど会社の金を自由にはさせないわけですね」  松平めぐみは顔を赤らめてもじもじした。  鶴岡は容赦なくくり返した。「高森さんはそれを知っていたからこそ、あなたに本当のことを打ち明けた、と、そう解釈してよろしいですね」 「まあ、額にもよりますけど」彼女はしばらく、スカートの裾を指さきでつまんだり揉《も》んだりした。  それから急に顔をあげ、突っかかるような口調で弁解しはじめた。「でも、それほど社内で権力を持っているわけじゃ、いえ、持たされているわけじゃありませんわ。会社のお金に関しては、最近不景気でお給料の遅配があったりして、それであの、特ににあの、労働組合の人たちが口うるさくてあの」彼女は次第にしどろもどろになり、とうとう話の途中で黙りこんでしまった。  経営の苦しさと社内人事の複雑さを知り、また大助は鶴岡と視線を交わしあった。 「犯人への支払いにあてた五百万円足らずの金は、社員の給料だとうかがいましたが」鶴岡ができるだけ事務的にそう訊ねた。 「はい。正確には四百六十八万二千円でございます」松平めぐみはすらすらとそう答えた。 「お給料日が明日なので、金庫に用意してあったのです」 「明日ですかあ」同情をこめて鶴岡が嘆息した。「で、明日はどうなさるおつもりです」  松平めぐみも、つりこまれたように嘆息した。「取引先から大口の入金でもない限り、またお給料が遅配ということに。おそらく明日になれば、わたしから社員全員にわけを話して、待ってもらうということになる筈ですわ」 「つまり、金が、まったくないのですか」信じられぬ、という大声で大助がいった。「銀行にも、預金はぜんぜんないのですか。だってここは、従業員何十人という会社でしょうが。かりそめにも」大助にしてみれば、それくらいの蓄えもなく従業員を雇うなどは、犯罪に近い行為とも思えたのである。 「社員数は二十二名です」きら、と反撥の色を眼に光らせて、彼女は大助に言った。「でも、それがこの辺の、この程度の町工場の内情なんですのよ。うちなどはまだ、よそに比べればお給料など、いい方ですわ。ほとんど組合の要求通りの額を支払っているくらいですから。銀行預金も少しはありますけど少額ですし、それは材料費の支払いにあてなければ、会社が破産します」  組合、ということばが二度も彼女の口から、しかも反感をこめて発せられたことに気づき、鶴岡が訊ねた。「高森社長は、当然、組合とは仲が悪いのでしょうな」  組合といっても従業員のほとんどが組合員だろうから、松平めぐみが「組合」と言う時は当然組合の指導者とか、委員とかいった連中のことを指しているのだろう、と大助は思った。  松平めぐみは自分の口調が刑事たちに余計な想像をさせたと知り、はっとした表情を見せ、すぐにかぶりを振った。「仲が悪いというより、むしろ社長の気が弱いために、組合の言いなりになっているといった方が」うっすらと笑った。「社長、わりとインテリなんです。だからその点、ものわかりがよすぎるってこともありますけど、それに、どうせこんな小さな会社の労働組合ですもの。従業員全部が会社の内情を知っていますから、そんな無茶な要求もしませんし」  松平めぐみが特別「組合」に反感を持っているわけでなく、高森社長の気の弱きにやきもきしているらしいことを知って、大助は内心にやりとした。 「では、従業員の中で、高森社長と特に仲が悪い人というのは」  鶴岡が核心に触れる質問をすると、松平めぐみは眼を丸くした。本心から、驚いたようでもあった。「まあ。それじゃ刑事さんたちは社員の中に犯人がいるかもしれないと」はげしくかぶりを振った。「そういうことでしたら、絶対にいません」  断定的な口調に、今度は鶴岡が驚いたようであった。 「だっで、会社の内情を知っている人間が、そんなに多額のお金を要求する筈ありませんもの」と、彼女は続けた。「たしかに五百万円は手に入れたでしょうけど、そのため会社が潰《つぶ》れるかもしれないのなら、さらに五百万円も要求してくる筈がありません。だって会社が潰れたら、この不景気ですから就職に困るでしょうし、だいいち、よそではこの会社ほどのお給金は貰えませんからね」  松平めぐみの勢いにやや圧倒されながら、鶴岡はいそいでかぶりを振った。「あなたがお金のことだけに固執されるのは、お役目柄無理ないと思いますが、しかし、わたしが言ったことには、金に関係なく、高森社長を個人的に憎んでいる人、という意味もあるのですよ。つまり、高森氏を憎むあまり、彼を苦しめてやろうとか、この会社を潰してやろうとか考えるような人物のことです」 「さあ。そこまでは、わたしにも」彼女は考えこんでしまった。本当に、心あたりはないようであった。 「それなら、社外の人でもいいけど、昨日ここの金庫に五百万円足らずの現金が入っていることを知っていた人は」  大助の質問に松平めぐみは、自分と社長以外、おそらく誰も知らなかったであろうと答えた。 「もう一度、明日の昼間に来なきゃなるまいね」高森建設金属の社屋を出た路上で、帰途、鶴岡は大助にそう言った。  松平めぐみの答えだけでは心許《こころもと》ないから、他の従業員にもいろいろ訊ねてみようということだろう、と、大助は思った。  大助がそう思ったとほぼ同時刻、高森邸の応接室では。  いや。もう、よそう。  出来ごとの同時進行性を文章で表現することは、厳密にいえば絶対に不可能であるし、それに近づこうとする試みは、中途半端へと無限に近づくだけである。今まで書いてきたような方法では読者が混乱するばかりだ。話の発展が阻害されるので読んでいて面白くないし、書く方だって面白くない。  それならいっそのこと、話を面白くするために、小説中における時間の連続性を、トランプのカードをシャッフルするような具合に無茶苦茶にしてしまえばどうであろうか。むろん、完全にごちゃまぜにするのではなく、事件のある一面だけを連続させ、それを書き終えてから他の一面を連続的に書くのである。その方が読みやすいであろうし、また、もうひとつ、作者にとっても有利なことには、それが読者をトリックにかける手段にもなり得るという点である。もっとも、ヴァン・ダインによる『推理小説タブー二十則』というものがあり、その中には「作中犯人が行うトリック以外に作者が読者にトリックを使ってはならない」という項目もあるが、作者はもともと本職のミステリー作家ではないので、まともに書いていっては推理小説を読みなれた頭脳|明晰《めいせき》なる諸氏にたちまちトリックを見破られてしまうので、この程度のプロット上の操作はお許し願いたい。しかし、どうしても時間の経過順に読みたいとおっしゃる向きは、さっそく次章の小見出し『A』の次に『B』『C』『D』『E』をとばして『※[#「A」にスラッシュ]』、さらに『B』『※[#「B」にスラッシュ]』『C』『※[#「C」にスラッシュ]』という具合にお読みくだきって差支えあるまい。    A 二十四日午後八時四十分  神戸大助と鶴岡刑事が捜査本部へ戻ってきた時、飛騨キャップをはじめ本部にいる刑事たちは、犯人がまた高森邸へ電話をかけてきたというので緊張し、低い押し殺した声で打ちあわせを行なっている最中だった。 「さっき、猿渡君から報告があった」と、すでに高森邸から戻ってきている布引が部屋へ入ってきた大助たちに説明した。「八時半ごろ犯人から、金の用意はできたかという電話がかかってきた。今度は女の声だったそうだ。共犯者がいたんだな。ハンカチを口にあてて電話しているらしく、辛うじて女とわかる、ひどく聞きとりにくい声だったということだ。高森氏はぼくと打ちあわせた通り、まだ金が揃《そろ》わないので、明日銀行から借りるからもう少し待ってくれと犯人に頼みはじめた。すると犯人は意外にあっさり『わかった』と言い、『明後日まで待ってやる。二十六日の朝八時半、今朝と同じように駅の裏の公園へ鞄に入れて持ってこい』と、わりあいすらすらそう言って、すぐ電話を切ってしまった。逆探知はできなかったが、テープ録音は成功したらしい。そのテープは、君の婚約者の浜田鈴江さんが」 「婚約者じゃない」大助が赤くなって抗議した。  布引は欠けた前歯を見せて笑った。「君の友人の浜田鈴江さんが、帰りがけに君の真っ赤のキャデラックに乗ってここへ持ってきてくれることになっている。いつまでも彼女に手伝ってもらうわけにもいかんのでね」 「あたり前ですよ」大助は眉をひそめた。「父の大切な秘書なんだ。あまりこき使わないでください」 「で、猿渡君たちはまだ高森氏の家に」 「はい。もちろん残っています」布引は鶴岡の質問に大きくうなずいて答えた。「今夜はおそらく高森邸へ泊り込むことになるでしょう。また犯人から電話がかかってくるかもしれませんし、今回の電話の女がはたして本当に共犯者なのかどうか、それもまだわかっていないわけですからね。もう一度、男の声で電話がかかってくる可能性もあります」 「いったい、どうして高森氏は、金がない、待ってくれなんて言ったんですか」なかば噛みつくように大助がいった。「取引があさってになるということは、それだけ映一君の解放される時期がのびるということでしょう。高森さんは映一君が可愛くないんですか」 「だって君」布引は大助の剣幕に眼をぱちぱちさせた。「その金がないからこそ、高森さんは警察へ連絡してきたんじゃないか。もっとも、電話で待ってほしいと言ったのは、会話をながびかせて逆探知するためでもあったわけだが、しかし実際問題としてだよ、高森さんから直接聞いた話では、高森さんの個人的な銀行預金さえほとんどない状態で、取引先の福寿銀行には現在融資を申しこんでいるが、それすらいまだに貸してくれないということだ。それに神戸君、君にだってわかっている筈じゃないか。警察が身代金《みのしろきん》の支払いをすすめるわけにはいかんのだよ」 「むろん、それはわかります。わかりますよ。しかしですね」大助はいらいらして握りこぶしを傍《そば》のテーブルに何度も軽く打ちつけた。「金があるのとないのとでは、実際に身代金を渡す渡さないにかかわらず、犯人との交渉の運びかたに大きな違いができてきて、それはもう、あった方がずっと有利にことが運ぶわけでしょう」  布引は苦笑した。「しかしその金がないのだから」 「会社がああいった状態では、銀行だって貸してはくれないだろうよ」鶴岡が横から、なだめる口調で大助に言った。 「おいっ。そっちはどうだったのかね」  デスクから声をかけてきた飛騨キャップに、鶴岡が近づいていきながら報告した。「経理担当者に会ってきました。内部に容疑者がいそうな様子は感じとれませんでしたが、腑《ふ》に落ちぬ点がいくつかありますので、明日もう一度出かけていき、他の社員からも話を聞こうと思っております」 「会社の金は、もうぜんぜんないそうです」大助も鶴岡と並んで立ち、そう言った。「銀行にも、材料の仕入先に払う金がほんの少しあるだけだそうです」そこまで報告してからついにたまりかねて大助は飛騨キャップに訴えかけた。「キャップ。警察の方針に反するかもしれませんが、高森映一君の二回めの身代金五百万円をぼくに出させてください。だいたいその金さえあれば、取引を明後日にまでのばさず済んだわけでしょう。では明後日の取引までに金ができるのかといえば、今の話だと高森さんの方ではできそうにないというのですから、取引をのばしたことには警察が犯人捜しの時間かせぎをするということ以外にほとんどなんの意味もなかった。犯人が見つからない限り、このままだと明後日になってもどうせ新聞紙で作ったにせの札束しか持っていくことができない。もし今、金さえあれば映一君がそれだけ早く家に帰れたかもしれないし、犯人を捕える機会だって早く到来したかもしれないのです。それはむろん身代金を支払ったからといって犯人が映一君を返してくれると限らないことは第一回めの例であきらかです。しかし、犯人逮捕ということを第一義的に考えた場合ですら、金を用意しておくことがその手段のひとつにもなり得ますし、しかもたった五百万円という金を出さなかったために映一君にもしものことがあったとしたら」冷笑を浮べてじっと自分を見つめている飛騨キャップの様子で冷静に返り、ちょっと気恥ずかしくなって大助は反省して見せた。「これはどうも、突然突拍子もない提案をして申しわけありません。そりゃまあたしかに、キャップがぼくの金持ち根性をにがにがしく思われる気持もわかります。しかしぼくは何も金持ちであることを自慢したいために言っているのではなく、これはつまり現代は資本主義社会ですから、そこから自然発生した、刑事としての感覚に反するその、自分の非常にいやらしいエリート意識を自分への怒りとして、犯人への怒りとして、警察機構とかまたは捜査方針の中へその、持ち込むということはあの」  大助のしどろもどろ振りに刑事たちが笑い出した。 「何を言っておるか。さっぱりわからん。もういいもういい。言いたいことは想像できるよ」飛騨キャップも苦笑した。「たしかに金はあるに越したことはない。しかし警察が誘拐《ゆうかい》事件の被害者に身代金を貸すなんてことは前例のないことだし、悪い前例にもなり兼ねない」  大助があわてて反論しかけた時、駅周辺の聞きこみに出かけていた刑事たちがどやどやと戻ってきた。  犯人からかかってきた電話の内容を教えられ、狐塚刑事がくそと叫んで地だんだをふんだ。 「またしても朝の八時半か。じゃ、やっぱり今度もラッシュ・アワーの駅構内へ逃げこむつもりだな。一度うまく逃げて味を占めたものだから、また同じ手を使うつもりなんだ。ええい。今度はそううまくはさせんぞ」 「と、言うところを見ると、聞きこみは収穫なしだったな」  そう言った飛騨警部に向きなおり、孤塚は報告した。「その通りです。犯人はその時間、駅周辺に出勤するサラリーマンで駅構内が混雑することを知っていたのです。駅員も、売店の女どもも、誰ひとり犯人らしい男の姿は見かけなかったそうであります。ただ、ここにひとり、おかしなものを目撃した女がいました。公園を見渡すことのできる、駅構内の売店の女です。この中年の女、ひどくひねくれたやつで、なぜか最初は私の質問にろくろく返事もしなかったのでありますが、ひと声怒鳴りつけてやりますと、突然、強情っぱりのどこかの箍《たが》がはずれたらしく、急におろおろ声になって喋りはじめました。それによりますれば、じつは第一回めの公園における身代金の受け渡しが行われているのとほぼ同時刻、そこでまことに辻褄《つじつま》のあわぬ出来ごとが起っているのであります」    B 二十五日午前七時三十分  山あり谷あり、森あり芝生ありといった数千坪の庭園が見渡せる、ヴェランダ風の朝食用食堂で、神戸喜久右衛門老人は冷えた伊勢海老《いせえび》に椰子《やし》の果汁という簡単な朝食をとりながら、ひとり息子の大助と秘書の浜田鈴江が交代で話す誘拐事件の内容に耳を傾けていた。 「わたしはお前の活躍ぶりを聞かされるたびに、この歳になるまで生きとった甲斐《かい》が、つくづくあったと思う」はや眼がしらにじんわり涙を溜《た》めた喜久右南門が、話なかばで顔をあげ、おろおろ声でそういった。「わしのような悪人から、どうしてお前のような、大天使の如き正義の味方が生れたか」肩を顫《ふる》わせはじめた。「しかも此の度は鈴江君までが大助に協力を」  嗚咽《おえつ》しはじめた喜久右衛門を横眼で見て大助と鈴江は、また始まったという眼をちらと交わしあった。  がぶり、とコーヒーを飲み乾した大助は、がちゃんと音を立ててモーニング・カップを受け皿に置き、大声でいった。「泣くのはやめてください」  大助のいつになく強い調子に驚き、喜久右衛門は眼をしばたいた。「びっくりして、涙が引っこんでしまったぞ」それからいささか不機嫌になり、フォークで伊勢海老をつつきまわしながら、つぶやくように言った。「せっかくいつものように気持よく泣こうとしておったのに」 「泣く方はいい気持かもしれませんが、こっちは心配でたまりません」大助は父親にいった。 「いつも最後はむせ返り、息が詰って大騒ぎになる。お父さんだって、あれは苦しいでしょうが」 「あれも、若しくはあるが、生きるか死ぬかの瀬戸際におるという涅槃楽《ねはんらく》もあれば、鈴江君の介抱がええ気持でもあるのじゃ。ま、そんなことはどうでもよい」喜久右衛門は咳《せき》ばらいをした。「お前は今朝、何かに怒っとるようだが、いったい何に向ってそんなに腹を立てているのかね」 「むろん犯人に対してです。誘拐という卑劣な手段に腹を立てていることはもちろんですが、子供ひとりの生命の代価をたったの五百万円とか一千万円とかに軽く見積ったことはもっと許せない。さらには、たったそれだけの金を支払うこともできない多くの人びとが現実に存在することも腹立たしい。それから、そんなことに怒りを向けなければならない自分にも腹が立つ」 「金持ちの息子として生れたことにも腹を立てとるのだろうな」喜久右衛門が悲しげに言った。「わしはよくない親じゃ。許してくれ」 「大助さまはやはりその五百万円を、どうにかして高森社長にお渡しになるおつもりですか」話題を変えようとしてか、鈴江が大助にそう訊ねた。 「問題はそれじゃな」喜久右衛門がうなずいた。「警察の人間が貸したとわかっては具合が悪いわけじゃろ」 「そうなんです。ぼくとは見ず知らずの関係ですから、個人的に貸すということもできないし」 「昨夜、ご本人から直接うかがいましたところでは、高森社長は福寿銀行に融資を申し込んでおいでとか」何かを示唆しようとするかのように、鈴江が控えめな口詞でそう言った。 「ええ。それはぼくも聞きました。あの銀行にはぼくも定期預金をしていますが」大助が考えながらうなずいた。「しかし、それをどうすればよいのかわからない」 「なんじゃい。それなら銀行が融資してやればよいじゃろ」喜久右衛門はこともなげに言った。「なにもお前が自分の預金からどうこうせずとも、わしが頭取に電話して命令すればよろしい。ああ鈴江君。さっそく頭取の自宅に電話を」 「待ってください。やめてください」大助があわてた。「銀行は、高森氏の会社が業績不振だからこそ融資をためらっているのです。それに、たとえ仮に誘拐事件のことを話し、子供の命を救う為《ため》だと言ったとしたところで、尚《なお》さら、返ってくるあてのない金など、出す筈がありません」 「出さんと思うかね」喜久右衛門がじろりと大助を睨んだ。「わしの発言力を軽視しとるようじゃな。わしが福寿銀行に運用させとる金を全額引きあげるのと、返ってくるあてこそないものの、たったの五百万円を出すのと、銀行にとってどちらが大きな損失になると思っとる。どだい、比較になどなりやせんのだぞ」 「そういう圧力はかけないでください。ぼくの好みじゃない」大助がいささか憤然としてそう言った。「それに、それだと一種の寄付行為になるじゃありませんか。お父さんの圧力によって銀行がしかたなく寄付行為に近いことをしたとわかったら、権力を持つ者への反感からその噂《うわさ》はたちまち銀行外へ洩れて拡まり、社会的にも大変なことになります。いちばん金があるところは銀行ですから、寄付を求める連中が銀行に押しかけるでしょう」 「ううん」喜久右衛門は少し顔を赤くし、黙ってしまった。 「鈴江さん。ぼくが自分の預金を担保にすると言ったら、銀行は高森氏への融資を承諾するでしょうか」と、大助は父親の有能な秘書に訊ねた。「むろん、高森氏にそのことを気づかれぬようという条件でですが」 「つまりそれは、担保の差入れということになります」鈴江は事務的に答えた。「ところがその場合、大助さまは担保差入証というものに、担保差入人兼連帯保証人としての判を捺《お》さなければなりません。そしてその書類には、むろん高森社長も借主として判を捺すわけですから、担保差入人が大助さまであることはすぐわかってしまいます」 「なんとかわからぬようにできませんか」大助が困って、訴えかけるように鈴江に訊ねた。 「たとえばその判を、高森氏のあとでぼくが捺印《なついん》するとか」 「あとから高森社長がその書類を見たいとおっしゃれば、すぐにわかってしまいます」昨夜のデートが中断されたためにまだ怒っているのか、鈴江はひどく冷たい口調でそう言った。 「それはそうじゃ」自分の秘書の有能さに喜びを隠しきれぬといった表情で、珍しく喜久右衡門が浮きうきと言った。「人間というものはそういう余計なところに必ず好奇心を抱くものでな。自分に金を出してくれた人間が誰かを、必ず知ろうとする。うむ。これはもう、必ず見ようとするじゃろ。うむ。必ず見おる」 「喜んでいては困ります」大助は頭を掻いた。「何かいい知恵はありませんか」 「では、いいことを教えようか」いつも、何かよくないことを思いついた時に必ずする悪戯っぽい眼を、喜久右衛門は息子に向けた。「籠抜け融資というのをやって見んかね」 「な、なんですかそれは」大助が少し驚いて父親を見つめた。「籠抜け詐欺というのは知っていますが、籠抜け融資というのは聞いたことがありません」 「そうじゃろう。わしが今初めて言うた」喜久右衛門老人が自慢した。「もちろん、わしもまだやったことはない。もっとも籠抜け詐欺に近いことなら若い頃四、五回やってボロ儲けをしたことが」大助の鋭い眼で睨まれ、喜久右衛門はまた咳ばらいをした。「父親をそのように刑事の眼で睨まんでくれ。昔のことじゃ」 「つまり高森氏を銀行へ呼び出し、銀行の応接室を無断借用して、銀行が融資しているように思わせ、金を渡してしまえ、とおっしゃるのですか」 「そうじゃ」喜久右衛門がうなずいた。「籠抜け詐欺の逆をやるのじゃ。銀行の方へは、見て見ぬふりをするよう、わしが話をつけといてやるぞ」 「ははあ。そういうことも可能ですね」大助は考えこんだ。    C 二十五日午後一時十分 「お呼び立てして失礼いたしました。本日、貸付課長は突然の病気で休んでおりましてお会いできません。わたくしは貸付課課長代理の亀岡と申します」銀行員、というよりはむしろ学者といったタイプの初老の男が応接室に入ってきて一礼し、数分待つされていた高森にそう言った。 「高森です」高森は立ちあがり、戸惑いを隠しきれぬ表情で亀岡に訊ねた。「電話でうかがいましたが、あのう、ご融資くださるというお話は本当に」 「はい。はい。ま、どうぞお掛けください」  落ちついた様子で亀岡はソファに腰をおろし、二人は福寿銀行の応接室で向いあった。 「決裁が下りましたので、さっそく午前中、うちの行員に、ご連絡をとらせたわけですが」亀岡が眼鏡をはずし、レンズを拭いながら淡淡とした口調で言った。「銀行取引約定書はお持ちいただけましたか」 「はい」高森が書類|鞄《かばん》から約定書を出しながら言った。「連帯保証人は二名ということになっているらしくて、氏名欄は二つありますが、お電話だと、保証人は一人でいいからというお話でしたので」 「はいはい。お一人で結構ですよ」亀岡は高森から約定書を受けとり、眼鏡をかけなおした。「この、高森完二とおっしゃるかたは」 「それは私の実弟です」高森は身内の者にしか保証して貰えないことを恥じるように顔を赤くした。 「高森さん」書類から顔をあげ、亀岡がゆっくりと喋りはじめた。「ご承知のことと思いますが、銀行ではご融資申しあげるかたや会社については前もって充分に調査することになっております。あなたの会社、高森建設金属製造株式会社の最近の業績は、当行の調査によりますと、どちらかといえばよろしくない、というより、まったく、かんばしくありません」 「そうです」高森は正直にうなずき、不審そうに亀岡を見つめた。「そうおっしゃるだろうと思いまして、融資をことわられることも覚悟していました。それがどうして」 「ま、今日までのながい間のお取引先ですから、特に考慮させていただいた、ということにでもしておきましょうか」亀岡は微笑してそう言い、また真顔に戻って声を低くした。 「じっは今朝、警察のかたがあなたと当行との取引状況を調べに見えまして、その際だいたいのことはうかがいました。坊っちゃんが大変なことで」 「ではやっぱり」高森が眼を見ひらいた。「警察が銀行に身代金を出してやれと言う筈はない。するとこれは、この銀行のまったくのご好意で」 「誤解なさらないでください」亀岡が背筋をのばし、高森を見つめた。「いくら長年のお取引先とはいえ、銀行が戻ってくるあてのない金を出すなどということはいたしません。これはあくまで、あなたの会社へのご融資です。もちろん返済期日は守っていただきますし、守れなかった場合は担保物件を頂きます。われわれは、高森さん、あなたを信じているのです。おわかりいただけましたか」  下唇を噛んでしばらくうつむいていた高森は、やがて顔をあげ、きっぱりと亀岡にうなずいて見せた。「よくわかりました。ご厚情に感謝します」 「では」亀岡は応接室のドアをあけて若い行員を呼び、五百万円を現金で持ってくるよう指示した。  金を鞄に入れて高森が帰っていくと、鶴岡刑事が化けていた亀岡課長代理なる架空の人物は、ほっとした表情で肩を落し、またソファに掛けなおした。 「うまくいきましたね」  神戸大助が応接室に入ってきて笑顔でうなずきかけると、鶴岡はハンカチで額の汗を拭いながら答えた。「嘘を気づかれやしないかと思ってはらはらしたよ。いくら何でも警察の人間が、誘拐事件のことを第三者である銀行の人間に話したりする筈がないものな。しかし幸い高森氏、その点には気がつかなかったようだ」  大助は高森が置いていった約定書の、空欄になっているもうひとつの連帯保証人のところへ氏名を書いて捺印し、さっきの若い行員に手渡してにっこりした。「こうすれば別段籠抜けをしなくてもいいわけだ」    D 二十六日午前八時二十五分 「なるほど。ここからなら公園がよく見渡せますな」駅の売店、例の無愛想な中年女がいる売店の前に立ち、布引が狐塚にそういった。 「犯人があそこで金の入った鞄を受け取れば、必ず構内へ入ってきて、この売店のすぐ前を通る」狐塚が眼をぎらぎら光らせて言った。「共犯者がいると映一君の身が危険だから、ここで引っ捕えるわけにはいかんが、なあに、この駅の周辺には腕のいい刑事が十人あまり張り込んでいる。いずれも尾行の名人ばかりだ。絶対に見逃しはしない」  改札口から駅舎の正面玄関まではぞろぞろ歩きの通勤サラリーマンでぎっしりだが、公園に通じる駅舎の裏口に近い側のこの売店付近は比較的通行人の数も少ない。それでも売店には、人の流れから抜け出てきて煙草を買いに立ち寄るサラリーマンがひっきりなしだから、狐塚も布引も遠慮して売店の隅の週刊誌の前に並び、肩をすぼめていた。 「その上、万が一の時に高森氏を護るため、公園の植込みの中には猿渡君がいますし、駅舎の裏口では駅員の清掃作業員に化けた鶴岡さんが今、掃除をしています。駅舎の屋根の上には望遠カメラを構えているやつもいる。完璧《かんぺき》です」 「馬鹿なやつだな犯人は。第一回目の五百万円だけで満足してりやいいものを。欲張りやがって」  二人はにやりと笑いあった。 「今、何時だ」 「ええと。二十七分ですな」 「そろそろ高森氏のあらわれる頃だ」 「あ。あらわれました」  駅舎とは反対側にある公園の入口から、小型のボストン・バッグを提げた高森社長が入ってきて、植込みの前にある街灯の下に佇《たたず》んだ。蒼白《そうはく》な細おもてが二、三日でさらに骨張り、睡眠不足のためか足もとが覚束《おぼつか》なかった。朝陽に眼鏡のレンズを光らせ、陽光に射すくめられたかの如く高森はしばらくその場で立ちすくんでいた。 「高森氏のあの鞄の中には、本ものの現金が入っているのですか」と、布引が訊ねた。 「そうらしい」狐塚が渋い顔をした。「神戸君が銀行に手をまわして融通した金が入っている。新聞紙を切ったにせの札束も一応警察で用意したのだが、やはり映一君の身の安全のため、本物を使うことになった。逆上しやすい犯人かもしれんし、共犯者がいれば危険もそれだけ大きいからな」  やがて、植込みの底でうずくまっている猿渡がちらと腕時計を見た。八時三十一分だった。朝の公園には人かげがなく、犯人らしい男も、まだあらわれなかった。 「犯人のやつ、張込みを気づいたのかな」八時三十五分。売店の前で狐塚がそうつぶやいた。 「犯人は、来ないのかもしれませんね」意味ありげに、布引がいった。  駅舎の裏口の横にある水道からバケツに水を入れていた鶴岡が心配そうにちらりと腕時計を眺めた直後の八時四十分、駅構内の人混《ひとご》みからすいと抜けて裏口へ出、公園に入ってきた背の高い男がいた。濃い色のサングラスをかけ、白いガーゼのマスクをしたその男は急ぎ足で高森に近づくと向いあって立ち、黙って右手をななめ下に突き出した。鞄を寄越《よこ》せという仕草だった。 「君は誰だ」  高森の顫え声を、植込みの中で猿渡は聞いた。 「映一はどこだ。映一の居場所を」  男は無言のまま高森の持っているボストン・バッグに手をかけ、ひったくろうとした。と、高森社長が突然、抵抗しはじめた。子供がいやいやをするように身をゆすり、鞄をとられまいとして両腕で抱きかかえようとする姿勢をとった。しかし、男の力の方が強かった。鞄を奪われ、高森社長はその細いからだを地べたに這《は》わせた。男はボストン・バッグを両手でしっかりと右腋《みぎわき》にかかえ、駅舎に向って走りはじめた。  男が駅舎に駈けこんでしまうまでここからはとび出すまい、と、猿波は考えた。倒れている高森のことがいささか気がかりではあったが、はずみで倒れただけだからたいしたことはない筈だ、と彼は思った。しかしその時、猿渡のいるところから少し離れた、誰もいる等のない植込みの中から二人の男が立ちあがり、犯人を追って走り出したため、猿渡も反射的に立ちあがってしまった。 「新聞記者だ」  猿渡が蒼《あお》くなり、植込みからとび出した。今、新聞記者が、あの|背の高い男《ヽヽヽヽヽ》に追いすがってふんづかまえたりしようものなら大変なことになるだろう、と、彼は思った。今度の事件が新聞記者に知られてはいないものと早合点して、本部では特に新聞各社に対して取材を自粛するような申し入れもしていなかったことを猿渡は思い出した。それにしても非常識な、と、猿渡は腹を立てながらその記者と思える二人の男をけんめいに追った。誘拐事件だというのに、なんという軽率さだ。おそらくは二流新聞の記者が、警察以外のどこかで事件のことを嗅《か》ぎつけ、功を焦って待ち伏せしていたのであろう。まったく、なんと非常識な。  猿渡は大声で叫んだ。「待て。今その男をつかまえちゃいかん。そいつには共犯者がいるんだ」    E 二十六日午後零時十五分  会社が昼休みになると経理担当の松平めぐみは、同じ区内にある自分のマンションへタクシーをとばして帰ってきた。 「遅くなってご免ね。おなか空いたでしょ」彼女はドアを開けてすぐのダイニング・キチンにあがり、食卓に向って少年週刊誌を読んでいる高森映一にそう言うと、帰途立ち寄ったスーパー・マーケットの紙袋から食料品を次つぎととり出してテーブルに並べはじめた。「すぐに、ご馳走を作りますからね。ちょっと待っててね」  マンガに夢中の映一少年は、うん、となま返事をしただけである。  松平めぐみが鍵をかけ忘れていたドアを開け、鶴岡が入ってきた。 「映一君」彼は松平めぐみをわざと無視して少年に呼びかけた。「さあ。そろそろおうちへ婦ろうかね。学校だって、もう三日も休んだことだし」 「刑事さん」松平めぐみが、右手に玉葱《たまねぎ》を握りしめたまま、へなへなとリノリウムの上へ尻を落してすわりこんでしまった。  映一はまだマンガの世界から現実へ戻れないらしく、鶴岡をぼんやり見つめたままである。  鶴岡は哀れむように松平めぐみを見おろして言った。「君もまったく、つまらないことに手を貸したものだねえ」    ※[#「A」にスラッシュ] 二十四日午後八時五十分 「と、言うところを見ると、聞きこみは収穫なしだったな」  そう言った飛騨警部に向きなおり、狐塚は報告した。「その通りです。犯人はその時間、駅周辺に出勤するサーラリーマンで駅構内が混雑することを知っていたのです。駅員も、売店の女どもも、誰ひとり犯人らしい男の姿は見かけなかったそうであります。ただ、ここにひとり、おかしなものを目撃した女がいました。公園を見渡すことのできる、駅構内の売店の女です。この中年の女、ひどくひねくれたやつで、なぜか最初は私の質問にろくろく返事もしなかったのでありますが、ひと声怒鳴りつけてやりますと、突然、強情っぱりのどこかの箍がはずれたらしく、急におろおろ声になって喋りはじめました。それによりますれば、じつは第一回めの公園における身代金の受け渡しが行われているのとほぼ同時刻、そこでまことに辻褄のあわぬ出来ごとが起っているのであります」 「ほう」飛騨警部が大きな眼をさらにぎょろりとさせた。「辻褄のあわぬ出来ごとというのは、高森氏の証言と食い違う事実があるということかね」 「食い違いといっていいかどうか」狐塚は、自分自身もまことに納得でき兼ねるという表情をして見せ、首を傾《かし》げた。「むしろ、高森氏の証言にはなかった事件が、ほぼ同時刻に起っているのです。つまりこの売店の女の言うことには、今朝の八時半ごろ、公園では行き倒れ騒ぎがあったのだそうで、はっきりした時間はわからんそうですが、駅構内の混雑状況からそう推定できるというのです」 「詳しく話してくれ」 「はい。この女は売店のシャッターをあげた朝の七時半前後、公園の植込みの前にひとりの労務者風の男が倒れているのを目撃しております。で、この中年女、昨夜からの酔っぱらいがまだ寝ているのかもしれんと思い、かかわりあいを嫌って警察へも連絡せず、抛《ほう》っておいたそうであります。この寒空にもかかわらずであります。まことに薄情というか、冷たい女でありまして」  飛騨警部が腕組みした。「死んでいたのか」 「いいえ。浮浪者が肺炎を起して意識不明になっておったもので、正確には行き倒れではなかったわけであります。たまたま公園を通りかかったという通行人から一一〇番に電話がありまして、公園に病人が倒れているというので、パトカーが現場へ行きました。調べてみますとたしかにそういう事件があり、報告書ではパトカーの現場到着が八時二十分ごろ、と、なっております。それからさらに救急車が来たりしたわけですから、騒ぎは当然八時半になるまで続いたと思うのですが」狐塚はかぶりを振った。「高森氏の証言は彼が目撃したと思えるこの事件にまったく触れていません」 「では高森氏は虚偽の証言を」  色めきたつ刑事たちを、飛騨キャップがちょっとあわてて制した。「待て。まあ待て。持てというに。それはまだわからん。わからんのだからな。あの公園は地図を見た限りでは細長いから、別の場所で身代金の受け渡しをしたのかもしれん。また、浮浪者事件落着後に高森氏が公園へ来たのかもしれん。さらにまた、高森氏としては騒ぎのことを知ってはいたものの、それどころではなかった、ということも当然考えられる。この点、もう一度よく確かめてみよう」 「さきほどの高森邸におけるわたしの質問に対しての高森さんの答えだけでは、そのあたりのところはまったく不明瞭であります」布引が手近の電話に手をのばし、受話器をとりあげた。「猿渡君に電話して、その辺を確認してもらいましょう」  飛騨キャップがいそいで注意した。「浮浪者の件は、高森氏が自分から言い出きぬ限り伏せておくようにとな」  布引は大きく頷《うなず》いた。「心得ております」 「そういえば」鶴岡が、高森邸の猿渡と電話で話しあっている布引の様子をじっと見つめながら、低い声で、つぶやくように言った。「高森さんがあんなに軽がるしく、いかに経理担当者とはいえ社員に事件のことを話した、というのもちょっとおかしいな」 「そうですね」大助もうなずいた。「でもそれは、あの松平めぐみという女性が、高森社長と特別な関係にあったからかもしれませんよ」  鶴岡がじろりと大助を横眼で見た。「ふむ。君もそこに気がついたかね。だいぶ観察眼が鋭くなったようだね」  浮浪者事件で公園へ行った者の中から、高森社長あるいは犯人を目撃した者を見つけてくるよう別の刑事に指示していた飛騨キャップが、鶴岡と大助の会話に耳をとめて向きなおった。「面白そうな話だな。それも聞かせてくれ」 「いえ。あの、私はまあ」大助はまた顔を赤らめた。「彼女が社長の性格についてうんぬんした時、そういったことを感じただけです」 「それは、わたしも感じましたな」鶴岡が同意した。「しかし、わたしが先ほど腑《ふ》に落ちぬ点があると言いましたのは、そのような勘による事柄だけではありません。聞きましたところでは、あの会社は明日が給料日だそうです。ところが五百万円近くの金は少なくとも昨日から会社の金庫にあった」 「ううん」キャップが唸《うな》った。「それもおかしいね。ふつうは銀行に預けておき、給料日に引き出しに行くものとほぼ相場が決っているが」 「そうだ」大助が、はっとして身をこわはらせた。「それにあの女は、金庫に五百万円近くの金が入っていることを知っているのは、自分と社長だけであるとも言っていました」 「そして犯人が第一回目に要求してきた額は五百万円だ」キャップが意味ありげにゆっくりとそう言った。 「あっ。それじゃ高森社長と松平めぐみが共謀して偽装|誘拐《ゆうかい》を」  大声を出した狐塚に、飛騨キャップが叫び返した。「いかん。軽がるしい推測はいかん。そう決めてしまうのはまだ早い。早合点してレールを踏みはずしたりして、もし本物の誘拐だったらえらいことだ」彼は眼を閉じ、大きく息を吸いこんでほんの五、六秒考えてから、眼を閉じたままで決断を下した。「よし。本物と偽装と、ふたつの仮定のもとに捜査をすすめよう。狐塚君と布引君は明日、高森建設金属の取引先をあたってくれ。昨日までに得意先からの入金が五百万円近くもあったかどうか。他の者は映一君の下校途中の道を、誘拐された時の目撃者がいないかどうかもう一度あたってくれ。それから神戸君」 「はい」大助は期待の眼で飛騨キャップを見つめた。 「情勢が変り、ちょっと特殊な捜査方法をとらねばならんようだ。わたしとしては君に、五百万円出してやってくれと頼むわけにはいかん。しかし君が個人的に高森さんに融資することは差支えないことにしよう。戻ってこないかもしれんがね。もちろん、刑事としての君が融資したのであることを高森さんに勘づかれぬようにという条件の下でだ。それが可能であば許可する。そして高森社長の反応を見ることにしよう」にやりと笑い、彼は片眼だけ開いた。「鶴岡さんに手伝ってもらってもよろしい」    ※[#「B」にスラッシュ] 二十五日午前七時四十分 「つまり高森氏を銀行へ呼び出し、銀行の応接室を無断借用して、銀行が融資しているように思わせ、金を渡してしまえ、とおっしゃるのですか」 「そうじゃ」喜久右衛門がうなずいた。「籠抜け詐欺の逆をやるのじゃ。銀行の方へは、見て見ぬふりをするよう、わしが話をつけといてやるぞ」 「ははあ。そういうことも可能ですね」大助は考えこんだ。「銀行の応接室で高森氏の反応を見て、本物か偽装かを判断することもできるわけだな」 「その、偽装というのは何のことじゃ」  喜久右衛門の質問で大助はわれに帰り、あわててかぶりを振った。「いえ。なんでもありません」 「偽装誘拐の疑いがあるとおっしゃるのですか」  急に鋭くなった鈴江の声に驚き、大助は彼女を見た。鈴江はじっと大助を見つめていた。  大助も鈴江を見つめ返しながらゆっくりとうなずいた。「じつは、そうなのです。何か、心あたりでもあるのですか」 「昨夜、わたくしが高森社長のお宅へうかがっていた時のことでございます」鈴江がモーニング・カップを置き、静かに話しはじめた。「猿渡さまがわたくしに、奥様がさぞご心配のことだろうから、話し相手をしてさしあげるようにと申されました。ところが高森社長は、わたくしが奥様とお話することに警戒なさるようなど様子をお示しになり、はっきりと、お気に召さぬお顔をなさいました。それまでにもわたくしは、高森社長が奥様のことを、さほど心配なさっていられるようには思えず、不審に思っておりましたので、尚《なお》さらそう感じたのでございますけれど」 「それで」大助はテーブルに身をのり出した。「高森夫人とは、会って話されたのですか」 「お会いはいたしましたが、奥様はジグソー・パズルをなさっておいででしたから、お話はいたしませんでした」鈴江は意味ありげに大助に訊ねた。「大助さまはジグソー・パズルをなさったことがおありですか」 「嵌《は》め絵遊びは子供の時に教育|玩具《がんぐ》のやさしいものをやりました。しかしあの大人向きの難かしいやつはまだ一度も」 「あれは大変精神の集中力を必要としますもので、いやなことを忘れるための気晴らしにするといったものではございません。なのに奥様はそれを、たいへんすらすらとなさっているようにわたくしには思えました。もちろん、あのパズルの難かしさをご存じない方であれば、パズルに夢中の奥様を見てむしろ逆に放心状態なのだと思われるかもしれませんが」 「だからこそ高森社長は夫人にジグソー・パズルをやらせておいた。また夫人は、わが子の誘拐が偽装であることを知っておったからこそ、安心してジグソー・パズルに打ち込んでいのではないか、というわけじゃな」今はもう海老《えび》をただ突つきまわしているだけの喜久右衛門が鈴江を、孫娘でも見るように細くした眼で見つめながらそう言った。  はい、と、鈴江はきっぱり答えた。    ※[#「C」にスラッシュ] 二十五日午後一時二十分  大助は高森が置いていった約定書の、空欄になっているもうひとつの連帯保証人のところへ氏名を書いて捺印《なついん》し、さっきの若い行員に手渡してにっこりした。「こうすれば別段籠抜けをしなくてもいいわけだ」 「さっき狐塚君から連絡があってね」首を左右に折りまげて骨をこりこり鳴らしながら鶴岡はいった。「当ってみた限りではここ二週間ばかり、高森建設金属への大口入金はないということだ」 「忘れていた。キャップからも先程電話がありました」大助もいった。「猿渡君がそれとなく訊ねたところでは、高森氏が浮浪者事件を知っていそうな気配はまったくないということです。また、その後高森邸へ、犯人からの電話は一度もかかってこないそうです。ああ。それから、テープにとった例の女の声からは、何ら顕著な特徴は見出《みいだ》せなかったということです」 「あの声では、まったく誰だかわからん」鶴岡はうなずいた。「松平めぐみの声とどこか共通点がないかと思って、だいぶ何度も聞いたんだがね。ところで」鶴岡は声を低くした。 「今朝もう一度高森建設金属へ行って社員たちに聞いてみたのだが、なんと驚いたことに君、社員たち一人残らず、昨日から、誘拐事件があったことを知っておったよ。自分たちの給料がその身代金として支払われたことも」 「松平めぐみが喋りまわったということですか」大助は眉をひそめた。「高森社長は、松平めぐみに口止めをしなかったのでしょうかね」 「むしろ、喋らせた気配が濃厚だ。従業員たち、はっきりとは言わなかったが、社長と松平めぐみの関係はもうここ数年続いているらしいし」鶴岡は眼を細くした。「ますます偽装臭くなってきたね」    ※[#「D」にスラッシュ] 二十六日午前八時三十五分 「犯人のやつ、張込みを気づいたのかな」八時三十五分。売店の前で狐塚がそうつぶやいた。 「犯人は、来ないのかもしれませんね」意味ありげに、布引がいった。 「うん。しかし」狐塚がちらりと布引を見た。「まだ偽装とは限らんよ」  八時四十分。  濃い色のサングラスをかけ、白いガーゼのマスクをした神戸大助は、それまでまぎれこんでいた駅構内の人混みからすいと抜け出て裏口へ出た。表口の横にある水道からバケツに水を入れていた鶴岡が、気がかりそうにちらと腕時計を見、顔をあげて大助の姿を認め、すぐに眼をそらした。大助は公園に入った。高森が大助の方を見つめていた。眼鏡が陽光にきらめいていて、表情はつかめなかったが、驚きで立ちすくんでいるようにも見えた。高森への疑いがますます大助の中でふくれあがっていた。高森が電話の女と約束した八時三十分をもし十分過ぎても犯人があらわれなかった場合、大助が犯人に化けて高森に近づいていき、その反応を見ようというのが刑事たちの打ちあわせであった。大助は高森と向いあって立ち、黙って右手をななめ下、高森が提げているボストン・バッグの方へ突き出した。  唖然とした表情の高森の口から、やっと声が出た。「君は誰だ」  その瞬間、高森への疑いは確信となった。そのことばは、高森自身のでっちあげた架空の犯人が現実に出現したことへの驚きを思わずあらわしたものとしか大助には思えなかった。植込みの中で猿渡が聞いていることを思い出し、失言に気がついた高森が、いそいで「映一はどこだ。映一の居場所を」と言いなおしても、大助のその確信は崩れなかった。大助はボストン・バッグをひったくろうとした。案の定、高森は鞄にしがみついた。高森にとって鞄の中の金は息子を取り戻すための金ではないのだ、と、大助は思った。思いがけず銀行が貸してくれた、会社倒産の危機を乗り切るために必要とする大切な金なのだ。だが大助は、その鞄を力ずくで奪い取った。金を奪われたあとの高森がどんな反応を示すか、それを観察するための、これも予定の行動だった。地べたに這いつくばった高森には構わず、大助は鞄をかかえて駅舎の方へ走りはじめた。背後で靴音がした。その靴音は大助を追ってきた。同僚の猿渡刑事である筈はなかった。しかも靴音は二人だった。さらにその靴音を、もうひとつの靴音が追ってきているようだった。猿渡の叫び声がした。靴音のため、何を叫んでいるかは聞きとれなかった。しかしその声は、大助の注意を促し、大助のすぐ背後にいる何者かの存在を教えようとしているかに思えた。公園の芝生の低い鉄柵《てつさく》をとび越えてから、大助はうしろを振り返った。あきらかに新聞記者と思える二人の男が自分に追いすがろうとしていることを知り、大助はあわてて逃げ足を早くした。二人の記者をさらに追いながら、猿渡がまた何か叫んだ。猿渡が何を叫んだにしてもそのことばは、誘拐犯人を追うことでけもののように興奮している二人の記者に聞きとれた筈はなかった。今、この功を焦っている二人の新聞記者に掴《つか》まったらえらいことになる、と、大助は思った。もし大助の身分が彼らに知れたら、彼らは現職の刑事が金を奪って逃げる現場を目撃したことになるのだ。たとえそれが計略であることを説明し得ても、事件が事件だけにいろいろと誤解され、新聞紙上で問題視されることは眼に見えていた。逃げ切らなければ、と、大助は思った。自分が考えついた突拍子もないトリックのため警察全体に迷惑がかかるようなことがあってはならぬ。  大助が駅舎へ駈け込もうとした時、ふたりの記者のどちらかが叫んだ。「そいつをつかまえろ」  あきらかに、裏口横の水道からバケツに水を汲《く》んでいる鶴岡に向けて発せられたことばであった。鶴岡は、わざとうろたえて見せた。大助が彼の眼の前を横切って駅構内に走り込んだ直後、鶴岡はバケツの水を新聞記者たちに向けてまともに浴びせかけた。「|うろ《ヽヽ》のきた」初老の駅員役をみごとに演じたのだ。記者たちはほんの少したじろいだが、この馬鹿がという眼を一瞬鶴岡に向けただけで、すぐ大助を追い、駅構内にとびこんだ。駅のコンコースはサラリーマンでぎっしりだった。その雑踏にまぎれこもうとした大助は、追ってくる記者たちの、そいつをつかまえてくれという大声で群衆の中の数人が自分に注意を向けたことを認め、ためらった。人混みにまざれこむことが逆に身動きできなくなることにつながる可能性もあった。だが、そのためらいも一瞬だった。新聞記者たちが迫ってきた。大助は群衆の流れに身を投じ、肩で人間を掻きわけながら、正面玄関へと男女のサラリーマンを追い越して進んだ。新聞記者たちも猛烈な勢いで人混みに駈けこんだらしく、大助の背後では彼らにつきとばされた連中の罵声《ばせい》と悲鳴があがっていた。今や記者たちと大助との間隔はほんの三、四メートルだった。大助は右腋のボストン・バッグを胸にかかえなおし、蓋を開いた。左手で鞄を支え、右手を鞄の中に突っこんで札束を鷲《わし》づかみにした。  封紙を切られた百万円の札束が正面玄関からの風に煽《あお》られ大助の頭上でぱっと散らばった。一万円札の一枚一枚が天井近くからひらひらと落ちてくるのを見た群衆の「おう」というどよめきを背に、大助はさらにもう百万円を強く頭上に抛り投げた。ふたたび、うす暗い朝の駅構内の、ダーク・グレイを基調とする雑踏の上にほの白く一万円札が群舞した。金だ、一万円札だという叫び声があちこちであがり、大助が一万円札の小封をさらに次つぎと頭上に抛り投げて駈け抜けるうしろへ、うしろへとサラリーマンたちが殺到した。その流れにさからい、大助は正面玄関へいそいた。もう、鞄の中は空っぽだった。大助はその鞄も投げ捨てた。男たちの罵声と女たちの悲鳴が背後で渦巻いていた。怪我人が出なければいいが、と、大助は思った。しかし、だからといって、あまりにもインテリの集団らしい冷静さで事態を受け止められては困るのだ。多少は奪いあいも演じてくれないと、大助と記者たちの間に人垣ができないのである。  正面玄関から駈け出た大助は、駐車場で彼を待ち受けているキャデラックに駈け寄った。運転席の鈴江が、走ってくる大助を認めて助手席のドアを開いた。キャデラックに乗りこみながら、大助は駅舎の玄関を見た。騒ぎは駅の外にまで拡がっていた。構内に駈けこんで行く者もいた。大助を追って記者たちが駅舎から駈け出てくる姿はなかった。 「何をなさったの」車をスタートさせながら、大助の様子に驚いた鈴江がそう訊《たず》ねた。  荒い息を吐きながら大助はいった。「また叱られそうなことをやってしまった。だけどああするよりしかたなかったんだ」    ※[#「E」にスラッシュ] 二十六日午後零時二十分  鶴岡は哀れむように松平めぐみを見おろして言った。「君もまったく、つまらないことに手を貸したものだねえ」それから映一をちらと見て、眼をしばたいた。「子供を利用するなんて、ひどい話だ。あとで映一君が警察から事情聴取された時、いくら嘘を言うよう言い含めておいたとしても子供は子供だ。結局は本当のことを喋《しゃべ》ってしまうだろうとは思わなかったのかい。また、たとえそれをうまくきり抜けたとしてもだ。映一君が大きくなって真相を悟りはじめた時にどう説明するつもりだったのかね」 「でも、でも、そんなことさえ考えていられないほど、会社の状態は切迫していたんです」松平めぐみは涙を流しはじめた。 「給料のことかね。取引先への支払いのことかね。どちらも待ってもらえばよかったんじゃないか。そんなに切迫していたとは思えないが」 「その通りですわ。わたしもそう思いました。でも、あの人にとっては切迫していたんです」冷たい色をしたリノリウムの上に彼女は泣き伏した。 「今回の事件のすべては高森社長の気の弱さが原因で起ったといっていいだろう」  事件のあと始末がほとんど終った二十六日の午後四時三十分、捜査本部に集まった刑事たち全員を前に、飛騨警部が事件の概要を説明しはじめた。「大口の取引にキャンセルが出たり、工程にミスがあって欠陥品を大量に作ったりしたことが原因となって、先月始めから会社にはどこからも入金がなく、社員の給料も、下請先への支払いもできない状態となった。高森社長の性格としては、労働組合から吊《つる》しあげを食うことも、下請先に頭を下げることも、どちらも我慢ならぬことだった。そこで偽装誘拐を計画した。彼は情婦の松平めぐみを共犯者として選んだ」そこでちょっと黙り、キャップは松平めぐみの取調べを行なった鶴岡に視線を向けた。  松平めぐみについて補足せよ、ということであると気づき、鶴岡が話しはじめた。「高森と夫人の関係はここ五、六年、冷えきっておりました。高森は松平めぐみとその時期より関係しておりまして、とき折は高森が彼女のマンションに泊ったりしたそうであります。松平めぐみの供述によれば、高森と彼女の関係はすぐ夫人にも知られてしまい、夫人はそれからすさまじいほどの濫費《らんぴ》をはじめ、そのため私生活においても高森は、経済的にたいへん困っておったということであります。したがって今回の事件の原因の一端は夫人にもあり、だからこそ夫人もこの茶番に加わってわが子の身を案じる母親の役をやらねばならぬ破目となったのです」 「二十三日の昼過ぎ、松平めぐみは下校してきた映一君を高森邸付近の淋しい路上で待ち受け、タクシーで彼女のマンションにつれて戻った」ふたたび飛騨キャップが解説しはじめた。「映一君は松平めぐみと顔馴染《かおなじみ》であったし、両親からもそうするよう教えられていたので、おとなしく彼女に従った。さて、会社の金庫はもともとからっぽであった。したがって二十三日の夕刻、松平めぐみは金を社長宅へ運んでなどいない。彼女がやったことは二十四日朝、出社するなり、映一君が誘拐され、給料として支払われるべき五百万円が身代金に充当されたことを従業員の誰かれなしに喋りまくったことだけだ」  布引が小首を傾げた。「ええと。なぜそんなことを」 「同情を得るためと、給料が遅配になることを社員、特に労組の連中に前もって納得させるためだ。さらには、従業員の誰かが警察に知らせた場合、事件が公となってニュースになる。そうすれば取引先からも同情され、さほど頭を下げずとも支払い延期を承知してもらえるだろうという甘い期待もあった」 「なさけない男ですな」狐塚が尖《とが》った犬歯を見せた。「そういう男の話を聞くと、わたしはむかむかする」 「しかし、このての馬鹿なことをやる気の弱い人間はえてして被害者指向が強く、世間に甘えたがるもんだよ」飛騨警部はいった。「さて、期待に反して従業員の中から警察に通報する者はひとりもあらわれなかった。そこで高森は、さらに第二回目の身代金の要求が犯人からあったと松平めぐみに社内を触れまわらせた。今度こそ誰かが通報するだろうと思っていたらしい」 「なぜ高森は、誰かが警察へ知らせる筈だと考えたのですか」猿渡が首をひねった。「ずいぶんひとり合点の計画だと思いますが」 「第一回目は、自分たちの給料が犯人に渡ったことに腹を立て、警察にとり戻させようとして誰かが通報するだろうと考えた。第二回目は、残り少ない会社の金を洗いざらい身代金にされてはますます給料の支払いが遅れるというので、やはり誰かが警察に連絡するだろうと考えた。つまり高森という男は気の弱いインテリだけあって、従業員というものは必ず社長に反感を持っているものだという固定観念を持っていたんだね。ところが豈《あに》はからんや、高森が自らを被害者の立場に置きたがるほどのこともなく、従業員二十余名ひとり残らず善良なやつばかり。すべて社長の家庭を案じ、自分たちの給料などよりも映一君の身を心配して、結局誰ひとり警察へは電話しなかった」 「高森は感泣すべきですな」鶴岡が憮然《ぶぜん》としてそう言った。 「警察沙汰にならないのではニュースにならないし、世間から同情して貰えない。しかたなく二十四日の午後五時ごろ、自分で警察へ連絡してきた。偽装でないことを示そうとして、八時半には松平めぐみに犯人のふりをして自宅へ電話してくるよう命じておいた」 「八時半といえば、鶴岡さんとわたしが会社で彼女に会った直後であります」大助が補足した。  鶴岡がうなずいた。「わたしたちが帰ったあと、彼女もすぐ会社を出て、近くの公衆電話から高森邸へ電話したそうです。送話口をハンカチでくるんだのであんな声になったらしい」 「この電話に出た高森氏の様子を横で観察していて、猿渡君が疑いを抱いた。偽装ではないかということを最初に考えたのは、どうやら猿渡君のようだ」  飛騨警部が猿渡にうなずきかけると、彼は顔を赤くした。「はい。それはつまり、電話で犯人と交渉した結果、映一君の戻ってくるのがさらに二日先にのびることになっても、高森氏にさほどわが子の身を案じる様子が見られず、電話のあともわたしに金のないことばかり訴えかけていたからであります」 「福寿銀行から融資の話があった時も、常識的な人間なら当然首をひねるところだが、ほんの少しいぶかしげな様子を見せただけで平然と金を受けとった。息子を誘拐され、身代金がなくて困っているのだから誰かが金を出してくれて当然という世間への甘えによって、さほどの疑いも抱かなかったらしい。さて、松平めぐみに脅迫電話をかけさせた手前二十六日の朝、高森は公園に出向かぬわけにはいかなくなった。ほんとは銀行が金を貸してくれたのだから、もうそれ以上芝居をする必要はなかったし、犯人など、あらわれないに決っているのだからね。警察が張り込んでいるから、犯人があらわれなくても不自然ではない。犯人があきらめて映一君を解放したと見せかけ、映一君にひとりで家に帰ってこさせればそれで万事終る筈だった。ところが犯人があらわれた。高森はさぞびっくりしただろう。にせの犯人を登場させようという神戸君の思いつきによって事件の真相が一挙に解明されたわけである」飛騨警部はそういってから大助にちらと横眼を遣った。「にせの犯人である神戸君を追いかけた二人の新聞記者のうち、ひとりは高森完二といって、高森の実弟だ。高森は誘拐事件がなかなかニュースにならないので二流新聞社にいる弟に電話した。銀行取引約定書の連帯保証人になってくれるよう頼んだわけだが、その時ついでに事件のことを話した。この完二という弟と高森は、あまり仲がよくなかったらしい。兄貴に似て身勝手な完二は、特ダネだというので、映一君の身を案じるどころか、同僚と語らい、警察を出し抜いて自分たちで犯人をとっつかまえ、ビッグ・ニュースにしようというので早朝から公園にひそんでいたというわけだ。高森にしてみれば映一君が戻ってこない時点でニュースになった方が記事も大きく出るしそれだけ世間の同情も集まるだろうと思っていたのだが、もとよりわれわれが新聞記者に話す筈もなく、ここでも思惑通りにはいかなかった」 「あの二人の記者を、思いっきり怒鳴りつけてやりました」猿渡が歯を剥き出した。「それなのに、くそ、あいつらは、しゅんとなるどころか、警察に協力しようとしたのがなぜ悪いといってあべこべにわたしに食ってかかる始末です。新聞記者の風上にも置けぬ奴らです」 「それで思い出したが」飛騨警部がちょっとそわそわした。「記者連中が、いや、これは二流じゃなくて一流の記者諸君だが、階下で発表を待っている」彼は頭をかかえた。「事件は解決したものの、神戸君のやった五百万円ばら撒《ま》き事件をどう説明したものか。まさかあれは刑事でしたとは言えない」  大助はたちまち打ちしおれた。「申しわけありません」  ここぞとばかり狐塚が怒鳴りはじめた。「金持ちのやりそうなことだ。金を撒くとはな。軽はずみなことをしてくれた。軽傷ではあるが、四人も負傷者が出たんだぞ」 「しかしまあ、神戸君にしてみれば、ああするのが最善の策だったのでは。どうせ神戸君の金なんだし」猿渡が弁護した。「それにあの負傷者たち、四人ともだいぶ金を拾ったらしくて、にこにこしていましたよ」 「回収されたのはたったの六万円だったそうですな」鶴岡がにやにやした。「あれだけの雑踏の中では、拾得者同士|牽制《けんせい》しあうということがないから」  刑事たちがげらげら笑った。 「通路交通法違反になるな」と、布引が意地悪く言った。 「しかしまあ、車が走っているほんとの道路じゃなく、駅構内だからいいんじゃないかねえ」鶴岡は大助の行為が何らかの処分の対象にならぬよう、うまく正当化できる方法を考え出そうとしている様子で首をひねった。 「あっ。撒いたのではなく、落したのだということにすれば」と、猿渡が叫んだ。 「落した札束が、駅構内の天井近くまでとびあがったりするものか」  苦虫を噛みつぶしたような顔で狐塚が言ったため、刑事たちがくすくす笑った。 「誘拐事件のことを小耳にはさんだやくざ者が犯人に化けて身代金を横から奪おうとし、しくじったのだということにでもしておこう。真相が新聞に出たりしたら、金持ちへの反感から神戸君が世論の吊しあげを食う。ま、そこのところはわたしにまかせておいてくれ」どっこいしょ、と、飛騨警部は立ちあがった。「とにかく、一件は落着した。諸君、ご苦労であった。この捜査本部は解散する。おめでとう」 「おめでとうございます」 「おめでとうございます」 「おめでとさん。おめでとさん」どこからか署長が踊り出てきた。 「これは署長。いつからここに」 「さっきからそこの机の下にかくれて、出番を待っておったのだ」  変な事件だったなあと口ぐちに語りあいながら刑事たちが部屋から出て行くのを横眼で見て、飛騨警部は大助を手招きし、低い声で言った。「浜田鈴江さんにはいろいろと協力してもらった。それでまあわたしから彼女に、ちょっとしたプレゼントをしようと思うのだがね」 「キャップが。彼女にですか」大助が少し驚いて眼をしばたいた。「いったい何を」 「中断した君とのデートだよ」と、飛騨警部はいった。「じつはもう、先刻電話したのだ。現在そこの駐車場には真っ赤っ赤のキャデラックが停っており、その中には君が出てくるのを首長くして待っている、ミンクのコートを着たとびきりの美人が」 [#改ページ] [#見出し]   ホテルの富豪刑事 「諸君に集って貰ったのは他《ほか》でもない。もう先刻ご承知であろう。関西の暴力団鎌口組系福本組と、関東の暴力団谷川組系水野組のふたつの団体が、組長以下ほとんど全員この町へやってきて何かの談合を始めるらしいという情報が入った」ハンフリー・ボガートそっくりの顔をした三宅《みやけ》警部が、特別対策本部に集った大勢の刑事たちを、悪魔のように尖《とが》った㈸字型の顔の下半分を歪《ゆが》めて眺めまわした。  県警四課にその人ありと言われたこの三宅警部は暴力団関係のヴェテランで、県下の暴力団員で彼の名を知らぬ者はなく、彼の名を聞いたやくざは例外なく皆|顫《ふる》えあがるなどと言われているが、それも彼のその顔立ちにおおいに関係があったらしく、三宅警部自身も自分の顔がハリウッド製ギャング映画の今は亡き人気俳優に似ていて見る者に威圧感をあたえることを極力利用したらしい節がある。その証拠ともいえるような、警部になるまでの各時代のこの人に関する面白いエピソードは山ほどあるのだが、むろんそれは本篇《ほんぺん》とは関係のない別の話になるので残念ながら割愛しょう。 「今までこの市は、暴力団とはあまり縁がなかった」三宅警部は話し続けた。「昔からある例の古臭い昇龍会《しょうりゅうかい》というやつは今や組長以下三、四人の老人集団に過ぎず、あとはちんぴらのグループが二、三、出来たり解散したりをくり返しているだけだ。したがって現在、この市に暴力団といえるほどのものはひとつもない。今度やってくる二団体はおそらくその辺のところも考えて談合の場所にこの市を選んだのだろう。地もとのやくざとの摩擦が起きる心配がないからという理由以外にも、あわよくばこの市を縄張り内に納めようと考え、その下見、あるいは示威の意図を双方が持っているとも勘ぐることができる。談合がうまくいって手打ち式となり、それぞれおとなしくひきあげてくれるだろうなどという甘い予想は禁物だ。談合が不調に終って血で血を洗う仁義なき抗争となり、縄張り争いなど起されては市民に大変な迷惑がかかる。たとえそれほどのことはなくとも、下っ端同士の小競合《こぜりあ》いが市内各所で起るであろうことは眼に見えているのだ。この署全体をあげて警戒にかかっていただきたいと思い、その為《ため》にこの署の刑事諸君ほとんどにここへ集って貰ったわけである。何か質問は」早口でそう言い終るなり三宅警部は椅子に掛けて唇の端に煙草をくわえ、火をつけてひと吸いしてから親指と人さし指で煙草をつまみ、煙を吐いた。  そのあまりの恰好よさに口を半開きにして見惚《みと》れていた布引刑事が、はっとわれにかえってあわて気味に訊《たず》ねた。「やってくる人数はだいたい、どれほどでしょう」  三宅警部は自分のデスクの右側でひとかたまりになっている捜査一係の刑事たち、お馴染《なじみ》の鶴岡、狐塚、布引、猿渡、それに神戸大助《かんべだいすけ》といった連中を胡散《うさん》くさげにじろりと流し眼で見てから、面倒具そうな様子で自分のすぐ左側にいる、県警からつれてきた部下のひとりに顎《あご》をしゃくって見せた。  小肥りで非常に悲しそうな顔をしたそのピーター・ローレそっくりの刑事は、手帳をとり出しながら布引に答えた。「どちらもまだ何人で来るかは決めていないようです。しかし互いに勢力を誇示しあうためできるだけ多数をくり出すだろうとは考えられます。福本組の方は組員が、ええと、約六十名、傘下《さんか》に八つの小団体があり、これが計百十名で、合計すれば百七十名です。一方水野組の方は組員百名、傘下に三つの小団体があり、その組員の数も足せば二百名近くになります。両方を合わせると三百六、七十名で、これらの全員がやってくるとは考えられませんが、彼らが属している鎌口組、谷川組はどちら警察庁指定の広域暴力団ですから、それぞれの系列の上部組織から応援を求めたりすることも予想できますので、ま、これに近い数のやくざが大挙してやってくると思って、そのつもりで対策を立てておいた方がいいでしょうね」 「その談合の日どりは決っているのですか」狐塚が手帳にメモしながら訊ねた。 「まだです」三宅警部の眼くばせで、やはり県警から来たジェームス・キャグニイそっくりの刑事が答えた。「どちらも相手の様子をうかがいながら日どりを調整しているようです。しかし、ここ二、三日うちに決定する筈で、およそ今月の末ごろか遅くとも来月はじめになるだろうということです」 「関東、関西からやってくるとすれば、最低ひと晩はこの町に泊るわけでしょうが、三百六、七十人も来ては、この市の中心部にある旅館だけじゃ収容しきれないのではありませんか」と、猿渡が言った。 「彼らはいったい、どこへ宿泊するつもりなんでしょう」  三宅警部の合図で、今度はエドワード・G・ロビンソンそっくりの顔をした県警の刑事が答えた。「彼らがこの町にやってきたことは今まで一度もなかったため、むろん彼らの定宿《じょうやど》などというものはありません。たまたまこの町の出身で、この市内に親や親戚《しんせき》もしくは知人の家があるという者を除外しての話ですがね。さて、旅館ですが」手帳をのぞきこみ、彼は風貌《ふうぼう》に似合わぬ凡帳面《きちょうめん》な口調で言った。「一応調べましたことをそれでは。当市は周辺の観光地から離れておりますので、観光旅館というのが比較的少く、市の中心部において県知事の許可を受け旅館営業をしているのは二十四軒に過ぎません。このうちいちばん宿泊客の収容数が大きいのは喜久屋という修学旅行などの学生の団体を専門に泊めている旅館ですが、こことて百十人でいっぱいになるそうですから、どっちみち彼らは分宿することになります。二十四軒のうち五軒は高級料理旅館でありまして、もし連中のうちここへ泊まる者がいたとしてもせいぜい組長か大幹部級の二、三人と思われます。さて残りの十九軒の収容客数は合計四百九十人であります。当夜、他の客がさほど多くなければ、彼らのほとんどが宿泊可能となります。さらに、いわゆるドヤつまり簡易宿所営業をしているのが二軒あり、ここの収容数は両方で六十人ですが、ここには常時三十人から四十人の長期にわたる滞在者がいますので、余分のベッドは二十か三十しかありません」 「彼らがホテルやモーテルを利用するという可能性はありませんか」と、鶴岡が訊ねた。 「ほとんどないと思います」鶴岡とは顔馴染らしい三宅警部がていねいな口調で自ら答えた。 「ホテルはエンジェル・ホテルが一軒だけですが、ここは高級な社用族向けのビジネス・ホテルですから奴《やっこ》さんたちは、旅館が予約でいっぱいだった場合を除き、敬遠するでしょう。国道沿いにモーテルが数軒ありますが、市の中心部からはだいぶ離れています」 「それにしても当日は、こちら側の人員が不足することになりますなあ」鶴岡が眼鏡のレンズを拭きながら言った。「彼らが分宿するとすればおそらく十軒以上になるから、各所に見張りを立てなければならんでしょうし、国鉄でやってくる者をチェックするため、駅周辺にも相当数の見張りを」 「連中の顔を見知っている刑事の応援を、両方の所轄署から求めるつもりではおりますが、それにしても不足するでしょうねえ」三宅もしぶい顔で室内の刑事たちを見まわした。「何かいい提案はないか」 「あのう」神戸大助がおずおずと意見を述べはじめた。「連中を一カ所にまとめて宿泊させる、というのはどうでしょうか。さきほどお話のあったエンジェル・ホテルの収容客数はちょうど三百八十人ですから、彼ら全員をあそこに泊めてしまえば警戒しやすくなり、市民に迷惑がかかることも少くなる筈ですね」  三宅警部の唇の端から、だらりと煙草がぶら下がった。「なんだと」  三宅に睨《にら》みつけられてしどろもどろになりながらも、大助は続けた。「つ、つまりですね、今のところまだその、さいわいにも彼らのやってくる日は決まっていませんから、決まり次第、その、エンジェル・ホテルの方で当日の予約を全部ことわって貰うようにすればですね。それでつまりあの、どういう方法で連中がエンジェル・ホテルへ来ざるを得ぬように仕向けるかというと、それはあの、簡単なことで、当日、他の旅館すべてを予約し、満室にしておけばよいわけでありますから」  三宅警部はじめ県警からやってきたワーナー・ブラザース組が次第にあきれ顔を見せはじめるのと対照的に、彼らと向きあっている一係の連中がにやにやしはじめた。 「うん。それなら万全の対策がとれます」くすくす笑いながら猿渡がはしゃいだ声でいった。 「エンジェル・ホテルだけに警戒を集中すればいいわけだ」 「署の全警察官の家族を総動員してこの辺の旅館を全部満室にしてしまえばいい」布引も欠けた前歯を見せて顔をほころばせ、そう言った。「家族たちが大喜びするでしょう」 「われわれがエンジェル・ホテルの従業員に化ければいい」今まではいつも大助の提案に反対してきた狐塚も、すでに馴れっこになってしまったのか今回は大乗り気で口をはさんだ。 「さいわい連中はわれわれの顔を知らんからな。そうすればホテルの中で小競合いが起っても、いや、むしろ起るに決っているわけだが、すぐに彼らを逮捕できるぞ」 「ちょっと、はしゃぎ過ぎではないのかね」三宅警部が捻《うなる》るような声を出した。「そんなことは出来っこないってことぐらいわかるだろう」 「しかしなかなかいい方法ではないですか」鶴岡が笑いながら言った。「ふた組を同じホテルに泊めてしまえば、連中は互いに牽制《けんせい》しあってホテルの外へはあまり出歩かないでしょうから、それだけ市民が迷惑を受けずにすむわけで」 「鶴岡さん。あなたまでが何を」三宅警部があきれて叫んだ。「あの上品なホテルが、そんな危険なことに協力してくれるわけないでしょう」 「いえいえ。あの」大助はあわてて身を乗り出した。「それはあの、必ず協力させますから」  猿渡が横から口添えした。「この神戸刑事のお父さんはあのエンジェル・ホテルの持ち主なんです」  三宅警部はじめ県警の刑事たちが、やっと了解したという顔つきでいっせいにじろじろと大助を見た。大助は今さらのように彼らとギャング映画のスターたちとの類似性を思い知らされ、圧倒された。三宅警部の夫人がローレン・バコールそっくりであろうことを大助は確信した。 「じゃあ君か。富豪刑事というのは」三宅警部が溜息《ためいき》まじりにそう言ってから部下たちを振り返った。「ここの署は羨《うら》やましいな。無制限に金が使える」  県警の刑事たちがいっせいに羨やましそうな表情をした。 「あのう、いかがでしょうか今の案は」大助は心配そうに訊ねた。「特殊な場合ですし、だからそういう特殊な手段も許されると思うのですが」 「何か意見はないか」ただちに双手《もろて》をあげて賛成するのがためらわれるのか、三宅警部は複雑な表情で部下たちに相談した。「そういう方法は可能かね」 「皆さんがたのお話をうかがっておりますと」悲しそうな顔をしてピーター・ローレが喋《しゃべ》りはじめた。「ほかの旅館を買い切るための金をこのかたが個人で負担なさるであろうということにすでに決めこんでおられるようにお見受けできますし、しかもその行為の不自然さになんの不審の念も抱かれておらんご様子ですが、それは事実このかたが全額出費なさるのですか」  持ってまわった言いかたがまことに彼にふさわしく、二、三の刑事たちが笑いを押さえきれずに吹き出した。 「あたり前でしょう。そんな金、捜査費から出せるわけありませんよ」最近、金のあるやつがいくらでも金を出せばいいのだという考え方に変わってきたらしい狐塚が、わざと投げやりに答えた。大助から恩恵を受けるのだとは思いたくない様子であった。 「お金がかかりますねえ」泣かんばかりの表情でピーター・ローレ刑事が大助を見つめた。 「ええ。当然金は要ります」不審そうな顔で大助がピーター・ローレを見つめ返した。  くすくす笑いながら猿渡が言った。「お二人のお話が噛《か》みあっていない原因は、金に対する感覚がわれわれと神戸君とでは大きく異る点にあります」 「それはたとえば、その程度の出費はこのかたにとって、われわれの感覚ではたとえばコーヒー一杯分にでも相当するのでしょうか」 「この男といちばんよくつきあっている私が感じた限りでは、その比喩《ひゆ》は適当ではありません」いつものことながら猿渡は大助のことを人に喋るのが楽しくてたまらぬといった様子で生きいきと説明しはじめた。「財産という立場から言えばそれは神戸刑事にとってコーヒー一杯分よりはるかに低い金額に相当するでしょうが、神戸刑事は常識人ですからコーヒー一杯分の金銭はコーヒー一杯分として認識しているのですね。ただそれが百万円とか一千万円とか、一億円とかになってくると、今度はわれわれの方がその金銭感覚について行けない。その点神戸君はわれわれ以上に幅広い範囲の金額に対する平衡のとれた正しい感覚を持っているといえるのでありまして」 「演説はもういい」ついに狐塚が牙《きば》を剥《む》いた。「金持ちを褒めちぎるのはよせ」  猿渡が顔を赤くして黙ってしまうと、大助はいそいで県警の刑事たちを説得にかかった。 「こう考えていただいてはどうでしょう。つまり市中心部の旅館を買い切るのはエンジェル・ホテルの営業政策によるものであると。事実、以前わたしの父はある観光都市に建てたホテルに箔をつけようとして、某国より観光に来日される重要人物をお泊めしたいがため、当日のその市内の他のホテルすべてを買い切ったことがあります。それと同じようなことだとお考えいただいては」 「しかし今度はそんな上客じゃない。ホテルが滅茶苦茶《めちゃくちゃ》にされるおそれがある。手癖の悪いちんぴらが多いから備品が盗まれるだろうし、喧嘩《けんか》で物品が壊れるだろう。拳銃を持ちこむやつもいるだろうから撃ちあいになるかもしれん。従業員の命まで危険だ」三宅警部は疑わしげな眼で大助を見た。「あんたが勝手に決めてしまったって、ホテルの本当の持ち主であるあんたの親父《おやじ》さんが承知するかどうかだ」  大助は胸を張った。「父がこの場にいればこう言うでしょう。犯罪防止の役に立つならあんなホテルの十や二十完全に破壊されてもかまわないと」 「しかし、従業員の命は大切だからな」 「だからこそわれわれが従業員に化けようと言っとるのです」狐塚刑事は熱心に言った。 「少くとも直接客と接触する担当の従業員は、すべて刑事が化ければよろしい。そして悪いことをするやつは片っ端から逮捕を」 「よほど連中を逮捕したいらしいな」  警部が皮肉まじりにそう言うと、狐塚の逮捕好きを知っている刑事たちがちょっとにやにやした。 「問題は、当日この市内の旅館に泊ろうとする一般の人たちをどうするかでしょう」  ジェームス・キャグニイそっくりの刑事がそう言ったので、今までやくざたちのことしか頭になかった全員がはっとした表情で顔を見あわせた。 「市中心部の旅館に宿泊しようとする人が泊れなくなる。その人たちをどうするかだ。市周辺部の二、三の小さな温泉宿に行くには少し遠いし、どうしても迷惑がかかってしまう。どうするか。ん。OK。これはやはり各旅館の判断にまかせるよりしかたがない。ん。OK。協力を求めましょう。身もとのはっきりした馴染客が予約してきた場合は宿泊させるように。OK。よほど重大な用のある客なら予約してくるのが普通ですからね。ん。当日の客はどうするか。女の客。女づれの客。子づれの客。この辺は大丈夫でしょう。それ以外は要心してことわる。OK。その辺は各旅館の判断にまかせるよりしかたがない。それぐらいの協力はする筈だ。OK。やくざには泊ってほしくないだろうし、自分たちの町の為ですからな」  キャグニイは手振りを混えてきびきびと喋り続けた。この刑事がどうやら自分で質問を口に出すことによって思考を回転させ、自分でそれに答えていくタイプの男であると知り、他の刑事たちは安心して彼のお喋りを聞きはじめた。 「OK。次に肝心のエンジェル・ホテルの方だ。これは逆に一般客すべてをことわらなければいけない。ん。それじゃいったい、組員たちが予約してきた場合、どうやって一般客のそれと区別するんだ。ん。せっかく組員たちが予約の電話をかけてきたというのに、一般客と間違えてことわってしまったりすればせっかくの案が台なしだぞ。ん。どうする。ん。OK。OKOKOK。最近の一流ホテルには常連客の名前がコンピューターにインプットされている筈だ。コンピューターはありますね。OK。OK。予約してきた客の身もとはこれである程度わかる筈だ。OK。ん。それ以外の客はどうする。ん。OK。ちょっとでもあやしげな客であればすべて予約を受けつけておく。OK。そして当日やってきた客を見て、もし組員でないことがはっきりした場合は事情を話し、旅館を世話してそこへ泊ってもらう。OK。もちろん旅館は全部予約してあるのだから、部屋はいくらでもある。客の判定をしなきゃならないから、これには担当の刑事がひとりついた方がいい。OK」 「いつものことだが、お前さんの話しかたを聞いているとこっちの頭の回転まで早くなるぜ」三宅警部が苦笑した。事実キャグニイ刑事の喋りかたにはそんな不思議な効果があった。 「旅館を予約しようとしてもどこもかも満室であるため、連中が疑いを抱く、ということはありませんかな」鶴岡が考え考え言った。「神戸君の案を実行に移したとしての話ですが」 「お互いに、相手の組が自分たちより先に予約したのだろうと考えてくれるでしょうな」エドワード・G・ロビンソンに似た刑事が重おもしい口調で言った。「われわれの警戒が厳重であることぐらいは彼らの行動を牽制する意味で多少彼らにわかってもかまわない。しかしエンジェル・ホテルへ彼らをさそいこむような工作をわれわれがしたこと、また、われわれ刑事が従業員に化けていることは、絶対に彼らに悟られてはならん。悟られると彼らがホテルを出ようとする。すると一般市民に迷惑がかかることになる。せっかく大金をかけた作戦がぶち壊しだ」じろり、と彼は狐塚を睨みつけた。「ホテルの中での、逮捕を目的とした、ひと眼で刑事とわかるような振舞いは慎んでもらった方がいいでしょうな」  狐塚でさえ一瞬眼を伏せたほどの威圧感が彼にはあった。 「彼らの談合の場所ですが」と、布引が言った。「連中、まだ決めていないのでしょうな」 「まだ決めていないようです」E・G・ロビンソン刑事がゆっくりとうなずいた。「しかしこれは、連中にできる限りホテル内の宴会場もしくはメイン・ダイニング・ルームでやらせるよう持っていきたいものですな。ほっておいてもそうなる可能性が強いわけですが」 「すでに全員、この富豪刑事の案を採択することがもう決定されたと決めこんでいる口ぶりだな」三宅警部が立ちあがった。「よしわかった。他にいい案もないし、考えている時間もあまりない。その方法で行く。連中がこの町へ来る日どりは今日明日中に決まるだろうという話だから、だとすればそれより早く、前もって各旅館の協力を求めておく必要がある。全員、手わけして旅館の協力依頼に出向いてくれ。こまかい打ちあわせは明日だ。神戸刑事。ホテル側との交渉は君にまかせるぞ」  その夜、シャンデリアの光が美しい、三十坪は優にある神戸邸のディナー用食堂で夕食をとりながら、大助は昼間の会議でのいきさつを父に語り終えた。「そういうわけで、捜査会議はそれで終ったのですが、その後すぐ両方の所轄署から連絡が入り、連中は十一月四日にやってきてこの町で一泊し、翌五日の正午より、やはりこの町のどこかで談合し、それが終り次第帰るというスケジュールを組んだということがわかりました。ですから四日と五日、あのエンジェル・ホテルをわれわれに貸してほしいのです。警察に協力するよう、お父さんからひとこと総支配人に言っておいていただけませんか」  大好物の椰子《やし》の芽のサラダにもまったく手をつけず、じっと大助の話を聞いていた神戸喜右衛門の眼が、話のなかばごろから次第にうるみはじめ、大助が語り終えた時には滂沱《ぼうだ》と流れ落ちる涙で老人の絹のマフラーはびしょびしょになっていた。「ではあのホテルが、お前の仕事の役に立つのか。警察の役に立ってくれるのか。悪いことばかりして稼《かせ》いだあぶく銭によってわしが建てたあのホテルを、お前は社会の為に役立ててくれるというのじゃな」彼はおろおろ声で喋りはじめた。「お前は天使じゃ。神の使いじゃ。わしの罪業を浄《きよ》めるために天が遣わせたもうた現人神《あらひとがみ》じゃ。ぐぐぐぐぐぐ」たちまち咽喉《のど》に痰《たん》をつめ、喜久右衛門は白眼を剥いた。 「食事中にそんなお話をなさるなんて無茶ですわ。こうなることはわかっておりますのに」すでにさっきから自分の席で腰を浮かし、この事態にそなえていた鈴江がすぐ駈け寄って老人を介抱しながら、大助に非難の眼を向けた。 「いそぐ話だったもんだから」大助も立ちあがり、鈴江に弁解した。「それに、何も食べてはいなかったじゃないか」 「あ。もうよろし。もうよろし」発作のおさまった喜久右衛門が鈴江の手の甲をたたいてそう言った。「喜びに噎《む》せたわけで、ちっとも苦しくはない。では、いそぐ話じゃからすぐに総支配人をここへ呼びなさい。あと、何日も日はないじゃろう。ん。連中がやってくるのは何日と言うたかの」 「十一月四日です」 「では急がにゃならん。待てよ。十一月四日というのは何故か記憶にある日づけじゃが。なんだ。わしの誕生日ではないか」喜久右衛門は自分の有能な秘書にちらと眼を向けた。「あんたはそれに気がつかなかったのか」 「いいえ。大助さまが最初その日にちをおっしゃった時から私はそのことに気づいておりました」鈴江は泣きそうな顔になってそう答えた。「しかし私は、喜久右衛門さまがそのことにお気づきにならねばよいと思いましたので、ことさらに申しあげなかったのです。なぜなら喜久右衛門さまは毎年、ご自分のお誕生日には必ずエンジェル・ホテルのメイン・ダイニング・ルームで、その夜ホテルへ宿泊なさったお客様全部をご招待になり、誕生祝いの晩餐会《ばんさんかい》を催される習慣をお持ちだからでございます。そして私には、そのことを私が喜久右衛門さまに思い出させてさしあげましたが最後、喜久右衛門さまのご気性として、たとえ宿泊客がぜんぷ暴力団員であったとしても必ず恒例通りのことをなさるに違いないという確信が」 「とんでもない」大助がとびあがった。「そんな危険なことをして貰っては困ります。ぼくが許しません。いや、警察が許可しません」 「まあ待ちなさい」喜久右衛門の眼が輝きはじめた。「そうか。いや。そうじゃった。そうじゃった。これを逃がしてはわしが可愛いひとり息子の仕事ぶりを目《ま》のあたりにする機会が永久に失われる」口を半開きにし、老人は口の中でへらへらと舌を躍らせた。「行かいでなるものか」突然哀れっぽい表情になった喜久右衛門が、くりごとのように弱よわしい声で大助に訴えかけた。「老人というものはの、なが年の習慣の変更をいやがるものなんじゃ。のう大助。お前は親不孝な子ではなかった筈じゃが」  大助はうろたえた。「相手は暴力団ですよ」 「なんの」老人が笑った。「そのようなものを怖《おそ》れるわしではないぞ。お前は昔のわしのことを知らんからそんなつまらん心配をする」 「毎年、喜久右衛門さまのお供をし、晩餐会でもずっとお傍《そば》につき添わせていただいておりますのは私でございます」決然として鈴江が言った。「恒例にはしたがわねばなりませんから、今年も私がお供をさせていただきます」 「いや。それはいかん」鈴江を孫娘のように可愛がっている喜久右衛門が、車椅子の上でのけぞった。「危険じゃ。書生の荒熊虎八につき添わせよう」 「あの乱暴な書生には、以前玄関で、喜久右衛門さまを車椅子ごとひっくり返した前歴がございます」鈴江は言い張った。「ここはどうあっても、私がお供をさせていただきます」  言い出した限りあとへは引かぬ二人の強情さをいやというほど知っている大助は、頭をかかえこんだまま大きく嘆息した。 「一度言い出したらきかず、いくら説得しても駄目なんです」  翌日、ふたたび開かれた会議の席上での大助の語に、三宅警部はちょっと渋い顔をした。 「ご老人というのはそうしたもんだ。ま、しかたがないな。なんといってもあのホテルの持主なんだから多少の我儘《わがまま》は聞いてあげなきゃあ。その晩餐会の警備のためにダイニング・ルームのウエイター役をやる刑事の数をふやさなければなるまいが」  その時、特別対策本部へ恰幅《かっぷく》のいい初老の男が刑事のひとりに案内されて入ってきた。 「ああ」大助は立ちあがった。「皆さんにご紹介します。エンジェル・ホテル総支配人の真田《さなだ》さんです」  東田は数十人の刑事の鋭い視線を浴びて少したじろいだが、さすがに貫禄を崩すこともなく、大助が拵《こしら》えた三宅の隣りの席に腰をおろし、一礼した。「真田でございます」  三宅は簡単に自己紹介してからさっそく訊ねはじめた。「われわれの作戦のことはすでに神戸刑事よりお聞きのことと思いますが、ご協力願えましょうか」 「もちろんでございます。こういうことはわたくし、大好きでございまして」浮きうきしてそこまで喋り、真田はあわてて咳《せき》ばらいした。「いや。そう申しあげると語弊がございますが、つまりその、喜んでお手伝いさせていただくということを申しあげたかったわけでございまして」 「ところで真田さん。われわれ刑事がエンジェル・ホテルの従業員に化けるとした場合、最低何人の人員が必要でしょうか」 「ホテルの専門用語でスケルトン・スタッフと呼んでおります最低の人員数は、収容客数の半分でございます。つまり収容客数三百八十人のわがエンジェル・ホテルの場合は百九十人ということになります」  三宅警部は捻った。「それはちと多いようですな。とてもそれだけの人員配置はできない」 「むろん、お客さまと直接接触する人間はもっと少くてよいので、ございます」真田があわてて言い添えた。「たとえば料理人や電話の交換手などは、本物を使っていただいてもいっこう差支えないわけでございます。お手伝いできることでしたら本物のホテルの従業員をどのようにお使いくださってもかまいませんので」 「助かります」三宅が軽く一礼した。「では、客と接触しなければならない係を順におっしゃってください」 「まず、ドアマンが一人必要です」 「ああ。これは出入りする人間をチェックする重要な役だ。ま、いったんチェック・インしてから町へ出て行くやつを尾行する私服を二、三人、常時ホテルの玄関周辺へ配置しておくとしてもだな、玄関そのものの警備をやるこのドアマンの役は」三宅は刑事たちを眺めまわした末、すぐ左側のキャグニイ刑事に言った。「君、やってくれ」 「はい」  いきのいいキャグニイ刑事に派手なドアマンの制服はいかにも似合いそうであった。 「フロント、ロビー周辺にページ・ボーイが五人は必要です」と、真田がいった。「五人のうちのひとりがチーフで、これをヘッド・ボーイというのですが」 「客の荷物を運んだり何やかやするやつですな」三宅が猿渡にうなずきかけた。「君がそのヘッド・ボーイをやってくれ。若い刑事を四人つける。外から女を連れこんでくるやつに気をつけてくれ。もちろん、女は追い返すんだ」 「わかりました」うなずきながら、きっと女のことで揉《も》めごとが起るだろうな、と猿渡は予感した。 「それからフロントですが、ここには総支配人のわたくしとは別に、フロント・マネージャーというのがおります。何か問題が起きた時にのみ客と接触するわけですが、これは夜十時以降はナイト・マネージャーと交代します」 「一昼夜のことだ。両方ともわたしがやりましょう」三宅警部は言った。「わからないことがあった場合は、あなたに訊ねます」 「当日、わたくしは責任上ずっと総支配人室におりますので、いつでもお呼びください。それからフロントですが、ここは刑事さんおひとりでよいと思われます。本物をひとりお手伝いさせましょう」 「愛想のいいのがよろしい。君、やってくれ」三宅は童顔の布引刑事にうなずきかけた。 「連中が一度にどっと来た場合は応援させよう」 「キャッシャーもひとりでいい筈です。機械の扱いに馴れている本物をひとりつけましょう」 「金のことで揉める場合も考えられる。鶴岡さん。お願いします」 「客室係。これは二百八十室という客室数の多さから申しましても、やはり相当数配置していただかねばなりません。エンジェル・ホテルは六階建てでございまして、二階は結婚式場ですから客室は三階以上となっております。三、四、五、六の各階フロアー・ステーションに最低二人ずつ、計八名のルーム・ボーイ、またはルーム・メイドが必要でございます。さらにこれらのチーフとして、普通はルーム・キャプテンが一人つきます」 「発案者としての責任上、このいちばん厄介なルーム・キャプテンの役を神戸刑事にやってもらおう」三宅は言った。「連中の動きを掌握するいちばん重要な仕事だ。君の下につく八人のルーム・ボーイ役も若い刑事がいいだろう」 「メイドがひとりもいないのはおかしくありませんか」真田が注意した。「普通この客室係は女性の方が多いのですよ」  刑事たちががやがやと喋りはじめた。 「婦警にやらせればいい」 「うちの署はいかつい婦警ばかりだぜ」 「いや。ぴったりの婦警も四、五人いる」 「あまりぴったりだと、かえって揉めごとのもとだぞ。だって呼ばれたら客室へ入って行くんだろう。密室だ。乱暴されるという危険も」 「乱暴する客をルーム・メイドが簡単にとり押さえたりしたら、かえっておかしいよ」  さっきからいらいらと会議のなり行きを見まもっていた狐塚が、ついにたまりかねて口を出した。「キャップ。わたしにはどのような役をあたえていただけるのですか。さっきからうかがっておりますと、この、重要な役はみんな他《ほか》の連中がやってしまうようで、わたしの活躍の場がない。なんとかひとつ、いい役をおあたえ願いたい」  真田と小声で何ごとか相談していた三宅警部が顔をあげた。「今、話していたのだが、もうひとつ重要な役がある。ハウス・ボーイだ。これをやってもらいたい」 「ははあ。それはどのような」 「掃除《ヽヽ》です」と、真田が説明した。「当日はお客さまがお客さまですから、ものがたくさん壊れたりするでしょうし、なにぶんホテルなどど利用になったことのないかたがほとんどの筈で、当然バス・ルームなどに故障が多く出るでしょうからその修理であるとか」 「つまり、雑役夫ですか」狐塚がいやな顔をした。 「まあ、そんな顔をするな」三宅はにやりと笑った。「婦警をルーム・メイドに化けさせるから、万一彼女たちが襲われた時には君に助けに行ってもらわなければならん。だいいち、君の顔はあまりにも刑事らし過ぎるから、せめて雑役夫の服装ででも胡麻化《ごまか》してもらわぬ限りはどうにもならんのだよ」 「わかりました」狐塚はしぶしぶうなずいた。 「当夜、喜久右衛門さまが恒例通り宿泊客招待の誕生祝いをメイン・ダイニング・ルームでなさいます」真田が心配そうに言った。「くれぐれも間違いのないようにお願いしたいのです」 「メイン・ダイニング・ルームの人員配置はどのようにすればいいのですか」 「普段であればキャプテン一人、ウエイター二人、ウエイトレス四人、レジ一人といったところでしょうか」 「給仕長をやってくれ」三宅はピーター・ローレ刑事にそう命じた。「宴会の時には客の全員が大食堂に集るわけだから、他を警備する必要はないので、神戸刑事、猿渡刑事もウエイターの役をやってくれ。その他二十歳台の若い刑事で手の空いた者は全員ウエイターをやるように。ウェイトレスは婦警にやらせる。わたしも総支配人代理として宴会の末席につらなり、警備する」 「一階にはグリル、コーヒー・ショップなどがございますが、これはメイン・ダイニング・ルームに隣接しておりますので、同じメンバーで賄えるかと思います。それから中二階に小さなバーがございます。ここにバーテンダーがひとり必要です」 「わたしがやりましょう」E・G・ロビンソン刑事が名乗り出た。「酒には詳しいので。もっとも連中、さほど凝ったカクテルなどは注文しますまいが」 「酔ってあばれたりするやつが出るかもしれん。よろしく頼む」三宅はうなずいて見せ、全員に話しかけた。「各自、担当が決まったら当日までにひまな時間を見てホテルへ行き、それぞれの本職からレクチュアを受けておいてくれ」 「念のため、当方では五日の夜の予約もおことわりしております」真田総支配人が言った。 「その人たちが五日の夜も居続けた場合のことを考えまして」 「これは重ねがさね、ご協力ありがとう」三宅はやや感激した表情で一礼した。 「総支配人。あなたにお電話です」警部のデスクで鳴った電話をとりあげて応対していたキャグニイ刑事が真田に受話器を渡した。 「ああ。そうかね。よろしい。わかった」受話器を置き、晴れやかな顔で真田は刑事たちを見まわした。「関西福本組百三十三名様、関東水野組百五十二名様、ふた組の団体さまのご予約をただいま相ついでお受けしたそうでございます」  わっ、と刑事たちが喚声をあげた。 「いやに早かったな」 「ほかの旅館が満員なのであわてたんだろう」 「やつら、堂堂と組の名を名乗ってやがる。どういうつもりだ」 「示威だろう」 「生意気な。警察を甜《な》めてやがる」 「人数が思っていたよりも少い」 「ホテルだと高くつくので人数を制限したんだろうな」 「もうひとつご報告がございます」真田が声を高くした。「五日正午からの宴会場のご予約も承りました。二百八十五名様のご宴会です。これは先方様と相談の上メイン・ダイニング・ルームで行わせていただくことに決まりました」  また、わっと喚声があがった。 「完璧《かんぺき》な警戒ができる」 「こんなにうまくいくとはな」 「浮かれるな。いい気になるな。やかましい」さっきからなんとなく不機嫌だった狐塚が立ちあがり、若い刑事たちを怒鳴りつけた。「戦争はこれからなんだぞ」 「ここが小説の便利なところなんだろうが、たちまち当日が来てしまったな」エンジェル・ホテルの一階ロビーでボーイの制服を着た猿渡が、やはりボーイ姿の神戸大助に言った。 「キャップたちはまだ本部にいるのか」 「さっき出たらしい。眼と鼻の先だからもうそろそろ着くだろう」大助は腕時計を見た。午後一時だった。午後一時を期して特別対策本部はこのホテル内に移るのだ。 「君たちはフロントの横にいてくれ。布引さんから指示がある時だけ荷物を運び、客を部屋に案内する。一度に大勢来るから荷物のない客は案内しなくていい」すでにヘッド・ボーイになり切っている猿渡が、役割の上での部下であるページ・ボーイ役の四人の刑事たちとてきぱき打ちあわせをはじめた。  この猿渡は大助よりも二歳ばかり年上で、まだ結婚はしていない。ご存じの通り大助の親友で、たいへんな友達思いでもある。推理小説のマニアなので知能犯相手の捜査には俄然《がぜん》闘志を燃やし、名探偵ぶりを発揮する。彼の活躍によって解決した難事件もいくつかあるのだが、それはこのシリーズとはまた別の話として書くべき物語であって、割愛しなければならないのははなはだ残念である。 「わたしの妻と子供二人はすでに明月館へ行っております」フロントの布引が血色のいい頬をほころばせながら、カウンター内の隣りのブースにいる鶴岡にそう話しかけた。「可哀想に。ろくにどこへもつれて行ってやったことがありませんので、旅館へ行って泊るというだけでもう大喜び。何もこんなに早くから出かけることはないのですが」 「君のところも明月館かね」鶴岡は眼をしょぼしょぼさせ、微笑した。「じゃあ今ごろはわしの孫たち六人と一緒に、あそこの広い廊下を走りまわっとるだろう。なあに子供なんてものは、自分の家でさえなきゃあ、観光地の旅館だろうと町なかの旅館だろうといっこうにかまわず、同じように喜んで遊ぶものでな」  その時、三宅警部を先頭に県警のワーナー・ブラザース組がロビーへ入ってきた。 「みんなを集めてくれ」  この県警のギャング映画スターの一隊は、なかば意図的に組織された傾向があるチーム・ワークのとれたグループである。もともとは三宅警部が自分の容貌に関してはなはだ強い自意識を抱いていたため、面白がってこういう連中を部下にし、教育したのだとも噂《うわさ》されている。このチームがワーナー映画そこのけの活躍で県下の暴力組織と戦ってきた記録の中には充分一|篇《ぺん》の長篇小説になり得る痛快談も含まれているのであるが、ここでは割愛せざるを得ないのが残念である。 「さっき両方の所轄署から連絡が入った」ロビーへ集った刑事たちに三宅警部が話しはじめた。「福本組は観光バス三台で来る。朝の十時に出発しているのでこっちへ着くのは四時頃になるということだ。水野組は国鉄で来るが、座席の関係で少くとも四つの班に分かれ、約四十分間隔で発車する列車に次つぎと分乗しているそうだ。第一班の乗りこんだ列車が駅に到着するのは二時で、以後、二時四十分、三時二十分、四時という時刻にそれぞれ三、四十人ずつが到着する。したがってこのロビー、及びそこのコーヒー・ショップなどは水野組の最後の連中と福本組全員とが同時に着く四時過ぎ、いちばん混雑する等なので、手の空いている者は手伝ってほしい。最後に念の為《ため》、もう一度言っておく。くれぐれも刑事らしい振舞いは控えるように。君たちはこのホテルの従業員で、彼らは高い金を払ってここに泊るお客さまなのだ。ていねいに扱え。よほどのこと以外は我慢するんだぞ。わかったな。よし解散」 「なぜおれたち刑事が暴力団にサーヴィスしなきゃならない」三宅警部の訓示が終ると、ハウス・ボーイの作業服を着た狐塚はフロントにいる布引の前に立ち、片方を歪《ゆが》めて不満を洩らした。「悪いことをするやつがいっぱい出るにきまっている。なのに逮捕もできない。よほど悪いことをするやつであっても、連中がいよいよこの町から出るという時でなければつかまえてはいかんそうだ。そんな馬鹿なことがあるか」 「でもまあ、今回のこの作戦は市内の警護とか保安とか秩序の維持とか、まあそういったものが第一の目的ですから」にやにや笑いながら布引が宥《なだ》めた。 「こんなことならあの富豪刑事のアイディアを支持したりなんかするんじゃなかった」狐塚はまだ、ぶつぶつ言い続けている。  この狐塚刑事と布引刑事は署内でも名コンビと噂されている。狐塚は多血質の怒りっぽい男で、悪に対しては容赦なく追及|呵責《かしゃく》し、時にはそれがサディスティックに過ぎて問題を起したりもするが、むろん根は彼の正義感から発しているのであって、同僚たちも上司もそのことはよく知っているからさほど彼を咎《とが》め立てすることもない。狐塚の後輩にあたる布引は、その狐塚の行き過ぎを制御する役割を自ら買って出たというおどけた男で、いちばん刑事らしくない風貌《ふうぼう》の彼が最も刑事らしいタイプの狐塚と気が合うのも不思議といえば不思議、当然といえば当然、その辺が名コンビと謳《うた》われる所以《ゆえん》でもあるのだろう。この二人がそれぞれの個性をぶつけあって協力し、解決した事件も数多く、それはふたりの性格の対比による面白さで小説にすれば結構読める話になるのだが、残念ながらここでは割愛する。  やがて関東やくざの第一班が到着し、ホテルマンに化けている刑事たちはたちまちいそがしくなった。タクシーで乗りつけてくる幹部たち、駅から歩いてやってくる若い連中をドアマンのキャグニイ刑事が迎える。五人にひとりは玄関の回転ドアにはさまれてわめき散らすので世話をしてやらなければならない。フロントでは幹部数人を相手に布引が部屋割りの交渉で、せっかく部屋を割り振っても必ず誰かが文句を言ってまたやりなおしである。荷物を持っていないので鍵《かぎ》だけ渡して抛《ほう》っておき、勝手に部屋へ行かせると、階を間違えたり廊下で道に迷ったりしてわめくので、ページ・ボーイの猿渡たちやフロアー・ステーションにいる大助たちはいちいちすっとんで行って宥めなければならない。さっそくバス・ルームを使い、シャワーの使いかたがわからないで電話してくるやつ、蛇口を壊すやつ、熱湯を浴びて火傷《やけど》をするやつまで出て、ここでも大助たちやハウス・ボーイの狐塚はてんてこ舞いである。  こういう連中のかたがつかぬうちに第二班、次いで第三班の到着である。さらにいったん部屋へ落ちついた連中が退屈してロビーへ出てきたり、コーヒー・ショップに流れたりし、こういうやつが衆をたのんで婦警の化けたウエイトレスをとりかこみ、抱きついたりもする。さっそくバーで一杯やるのもいる。喧嘩《けんか》まで始まったのには刑事たちも驚いた。仲間うちでさえ喧嘩するのだ。関西組がやってきた時はどのような騒ぎになることか。 「困りました。今日になってもまだ予約解消のお願いを連絡できないお客様がいらっしゃいます」総支配人宝では真田が、相対した三宅警部に心配そうな顔でそう報告していた。「二カ月前に、ご予約くださったアメリカはニューヨークのジョー・J・ジョーダンとおっしゃる方です。このかたは最近ご結婚になり、リタ様とおっしゃるど夫人と世界一周の新婚旅行にお出かけになったのですが、ヨーロッパ各都市を転転となさっていて行く先がなかなかつかめず、とうとう今日になってしまいました」 「どこから日本へ向かうか、どの便で来るか、ここへ何時に到着するか、そういったことは全然わからないのですね」 「そうなのです。もしご到着になれば、わたしの口から直接事情をお話しして、ほかのホテルをご利用願うよう申しあげるつもりではおりますが、なにぶん外人様でございます。日本旅館はお嫌いになりましょうし、夜遅く到着された場合は遠方のホテルまでお越しになるのを厭《いや》がられると思います」 「やむなく泊めることもあり得るわけですな。いや。ご心配なく」三宅は自信たっぷりにうなずいた。「組関係の連中の人数が予定より少なかったのをさいわい、そういう万一の客にそなえて六階だけはなるべくフロアー全体、空室を多くするように言っておきました。なあに、五階のツインへ二人ずつ押しこんだのですよ。その外人夫婦は新婚放行だから当然スイート・ルームを使うのでしょうが、六階のあのいちばん奥のスイートなら安全でしょう。布引刑事にそう連絡しておきましょう」  てきぱきとそう喋《しゃべ》りながら三宅が受話器に手をのばした時、ノックもせず、泡《あわ》を吹いて狐塚がとびこんできた。 「キャップ。ここにおられましたか。捜しまわりました」 「おれに用がある時は口笛を吹けばいいんだ」  あいにくこのパロディは狐塚には通用せず、総支配人が苦笑しただけであった。 「五百二十三号室にちんぴら五人が集って、マリワナをやっています」狐塚は火を吹きそうな眼で三宅を睨《にら》みながらそう言った。「水道のカランが壊れたというので部屋へ入って行ったのですが、連中、わたしを見ても平気でまわしのみをしていました。このホテルの従業員は皆刑事みたいな眼つきをしてやがるとかなんとかほざきながら。キャップ。ああいうものを現行犯で逮捕してはいかんのですか。明日になれは証拠がなくなってしまうかもしれません」 「まあ、我慢しろ。我慢しろ」三宅警部は立ちあがり、狐塚の肩を叩いた。「今、あんたは刑事じゃないんだ」  狐塚が憤然としてさらに何か言いかけた時、ドアをノックして鶴岡が入ってきた。 「キャップ。駅で見張っていた関東の所轄署の横山刑事から連絡が入りました。ただ今水野組の組長水野十郎をはじめとする総勢四十一名の第四班が列車で到着し、こちらに向かったそうです」 「いよいよ戦争になりますな」三宅が大きくうなずいた。「ではわたしも、フロントを手伝いましょう」  午後四時十二分、関西組、及び関東組の本隊が同時に到着した。  フロント前のロビーで、それぞれ若手の幹部に囲まれた水野十郎組長と福本平蔵組長が対面した時、周囲の刑事たちは緊張した。 「やあ。しばらくだな福本さん。元気そうじゃねえか」 「あんたも達者で何よりやな。まあ、つもる話はひとつ、明日の楽しみに残しときまひょうや」 「わははははは」 「わははははは」  二人の会話はそれだけであった。つもる話とは何か。それが談合の内容に関係があるのかどうか。すぐ傍で聞き耳を立てていたページ・ボーイの猿渡はそのなに気ない会話の裏にある不気味さに首筋の毛をちりちりと逆立てた。両親分が共に初老の貫禄で睨みをきかせていたためか、子分同士の鞘当《さやあ》てもなく、それぞれの部屋割りが終ってほとんど全員おとなしく部屋に入り、刑事たちはやっと肩の力を抜いた。 「最初の山場はどうにか乗り越えましたね」カウンターの中から様子を見まもっていた鶴岡刑事が、傍らに立つ三宅警部に小声で言った。「子分の組員たちも、互いにそれほど敵意は持っていないようでしたが」 「にやにや笑いながらうなずきあったりしていたようですな」三宅は少し意外そうな表情で首を傾《かし》げた。「しかしあれは、互いに相手方を油断させる為であったようにも思えます。見かたによっては一触即発という雰囲気《ふんいき》でもあった」  ことさら反対もせず、鶴岡はゆっくりとうなずいた。「次の山場は神戸喜久右衛門氏の誕生祝いの晩餐会《ばんさんかい》ということになりますが、招待状はいつ配りますか」 「今のところ、半数以上の者が部屋にいるようだな」首をのばしてコーヒー・ショップの混《こ》み具合をうかがい、三宅は言った。「神戸君たちに言って、今すぐ各部屋へ配布してもらいましょう。少し時間がかかるが、招待状をただ抛り込むだけではなしに、いちいち招待の趣旨を口上として説明させます。その方が連中の動静をうかがえるので」  鶴岡はさりげなく提案した。「両組長の部屋には、全員を宴会に出席させてもらえるよう頼みに行く必要がありませんかな。マネージャー自ら挨拶に出向いた方がいいと思いますが、キャップはいそがしいから、わたしがマネージャー代理として行ってもいいですよ」 「そいつは気がつかなかった」三宅は驚いて鶴岡を見つめた。「たしかにそうすれば間違いなく全員が出席するから警備もしやすい。鶴岡さんやって貰えますか。あなたならその役にぴったりです。わたしが行ったとなると、なにしろこの顔だから警戒されます。怖がるやつがいるかもしれない」 「わかりました。じゃ、ちょっと行って来ましょう」鶴岡は気軽にそう答え、カウンターを出てエレベーター・ホールへ瓢然《ひょうぜん》と歩きはじめた。  この鶴岡刑事、長身|痩躯《そうく》で一見学究肌、または実直な経理担当課長といった様子にも見え、事実人情味厚い初老の刑事で若い刑事たちへの面倒見もよく、一方本職の方でもなかなか鋭い勘と推理力を持っているので署内では最も人望がある。この人がその独特の風貌を捜査活動に生かしてみごと解決した事件も数多く、そのほとんどを捕物人情談とでもいうべき味のある話に仕立てあげることができるのだが、先を急ぐためここではそれに触れることができないのはまことに残念である。  午後七時十分前、神戸喜久右南門が到着するというので迎えに出た猿渡が、玄関さきにすまして立っているドアマンのキャグニイ刑事に訊ねた。「出かけたやつはいませんか」 「五、六人がつれ立ってふた組、どこかへ出かけたが、さっき帰ってきた」と、キャグニイは答えた。「買い物にでも行ってきたんだろう。今日は地下のショッピング・センターを休業させたからな」 「七時から晩餐会をやることになったおかげで市内の警備が楽になりましたね」猿渡はうなずいた。「夜になってからうろうろ出かけられてはかないません」  喜久右衛門と鈴江の乗ったロールスロイスがポーチに到着した。キャグニイ刑事が助手席から車椅子をおろすと、猿渡が後部席の喜久右衡門を助けおろして車椅子に乗せる。鈴江が車椅子を押して自動ドアからロビーに入る。護衛のためついて行こうとした猿渡をキャグニイ刑事があわてて引きとめた。 「あの車椅子を押していったとびきり上等の美人婦警の名前を教えろ。あんな美人がここの署にいるとは知らなかった」 「あれは婦警じゃありません」猿渡は笑った。「あの人は神戸家の秘書で神戸刑事の婚約者です」  実際は婚約などしていないのだが、猿渡はすっかりそう思いこんでしまっている。  午後七時、メイン・ダイニング・ルームの重い欅《けやき》の扉が開かれた。特別に作られた最高級の料理が出るという噂であったし、それを腹いっぱい、しかもただで食えるというので、わざと腹をぺこぺこに減らせて待っていた組員連中がどやどやと入ってきて思い思いの席につく。最後に、それぞれ若衆頭に護衛された両親分が入ってきて、それぞれ部屋の中央部の隣りあったテーブルにつく。部屋の正面中央は喜久右衛門の席で、車椅子の喜久右衛門に鈴江が侍《はべ》り、その横のテーブルでは豪華なバースデー・ケーキが七十数本の蝋燭《ろうそく》の火をゆらめかせている。  雰囲気に気圧《けお》され、親分たちに遠慮して、組員たち普段に比べればだいぶおとなしくしてはいるのだが、それでも行儀の悪さは隠しようがない。刑事の化けたウェイター、婦警の化けたウェイトレスが乾杯用に注いでまわるシャンパンは注ぐ端からあっという間に飲み乾されてしまい、最初から並べられていたオードブルはたちまちむさぼり食われてなくなり、もっと注げおかわり寄越《よこ》せなどとわめくやつもいる。総支配人代理の三宅が立ちあがり、正面のマイクの前に進み出てふた言み言祝辞を述べ客への挨拶らしさものを喋り、乾杯の音頭をとろうとしたが、これが県下に名高い鬼警部とは知る由もない関東やくざと関西やくざ、むろんほとんどの者が聞く耳持たず、わいわいがやがや私語を交しながらただもう食うのに夢中である。料理が出、注文に応じてビール、酒、ウイスキーなどがグラスに注がれはじめると座はますます乱れた。両親分や若衆頭さすがに気兼ねしてたまに野郎どもちったあ静かにしねえかいと怒鳴りはするのだがその時限りであまり利きめがない。意外なのは普段気難かしい喜久右衛門が好好爺《こうこうや》然としてにこにこ笑いながらこの騒ぎを見まもっていることで、傍《そば》の鈴江も、遠くから父親を見まもっている大助も、この分では喜久右衛門の癇癪《かんしゃく》玉の破裂を心配しなくてよさそうだと思い、ほっとしていた。  料理のコースが半ばを過ぎた頃、突然末席近くにいた関東方のちんぴらのひとりが立ちあがり、つかつかと正面に進み出てマイクの前に立ち、昂奮《こうふん》した様子で喋りはじめた。「みんな。聞いてくれい」  この馬鹿が、いったい何をやるつもりかというので全員が驚き、あっけにとられ、広いホールが|しん《ヽヽ》とした。 「誰もやらねえようだから、この宴会に招待してもらったお礼の挨拶を、おお、おれにやらせてくれい」 「ツトム。やめろ」水野組の若衆頭が立ちあがって叫んだ。「てめえみてえな小僧っ子の出る幕じゃねえ」 「わかってる。わかってる。おれみてえなちんぴらがみんなの代表格でこんなとこへしゃしゃり出て挨拶するのは身の程知らずだよ。そんなことわかってるよ兄貴。だけどもよ、おれ、感激しちまったんでどうしてもこの人にお礼を言わせて貰いてえんだよ」ツトムと呼ばれたその二十五、六歳と思えるちんぴらはおろおろ声でそう言った。 「ちっ。酔っぱらってやがる」  若衆頑が舌打ちしてつれ戻しに行こうとするのを水野十郎親分がとめた。「まあやらせて見ねえ。面白えから」  喋りはじめた。「おれたちがどういう人間か、このホテルの人にはわかっていた筈だ。それなのにこんな宴会に招待してくれた。おれたち以外の、堅気の客はひとりもいねえというのにさ。え。おれたちをまともな客として、厭がりもせずまっとうに扱ってくれたんだぜ。おいみんな。おれたちにこんなことしてくれた人が他にいるかい」泣きはじめた。「みんなにはそれがわかってねえんだ。良識のある市民とか新聞とかいったやつらはよ、みなおれたちをけもの扱い、虫けら扱いするじゃねえか。おれはよう、連中がなぜこんなに寄ってたかっておれたち善良なやくざをいじめるのかと思ってたんだが、今日はじめてこの人からこんな扱いをされて、おれはもう、すっかり感激しちまってよう。こんなうまいもの、生まれて初めて食わせてもらって、おれはもう。おれは」わあわあ泣いた。  座がしらけ、湿っぽくなった。 「阿呆か」そう怒鳴って、マイクの近くの席にいた関西やくざのひとりが躍りあがるようにして立ちあがった。かんかんに怒っていた。「お前それでも関東の極道か。こんなことで感激して阿呆みたいに泣きやがって。こんなもん、成金の、ブルジョアの、気まぐれの道楽やないか。なんじゃいその馬鹿でかいケーキは。そんなもん、わいがぶっ潰《つぶ》したるど」ケーキめがけて突進した。  大助が父親の身を護《まも》るため駈け出そうとした時、料理を運んでいた給仕長のピーター・ローレ刑事が、すぐ傍を走り抜けようとしたやくざにわざとぶつかり、サフランライス添えビーフ・ストロガノフの皿を盆ごと彼の顔面に叩きつけた。 「あちちちちちちちちち」とびあがり、クリーム入りソースで顔と背広を白と茶色のだんだらに染め、飯粒をいっぱいくっつけたやくざは、激昂してピーター・ローレの胸ぐらをつかんだ。「何さらす」平手でひっぱたいた。「わざとやりやがったな。お前ボーイ長やろ」ぶん殴った。「ボーイ長が客にそんなことしてもええ思てるんか。この」ぶん殴った。 「すみません。すみません」ピーター・ローレ刑事は泣きそうな顔で弱よわしく詫《わ》び続けながら殴られるままになっている。 「そうとも。やっちまえ。やれやれ。もっとやれ」やはり正面近くのテーブルにいた関東やくざのひとりが立ちあがり、わめいた。「悪いことするのに理屈はいらねえや。おれたちは嫌われ者だよ。けものだよ虫けらだよ。それでいいじゃねえか」  そうだそうだという声があちこちであがり、得意になった関東やくざは大きく胸を張った。 「もっと嫌われ者らしくしてやろうじゃねえか。え。だいたいこの給仕女はどいつもこいつも不細工なやつばかりでいけねえや。そうだろ。あの別嬪《べっぴん》に酌をしてもらおうぜ」鈴江を指さした。  鈴江がからだをこわばらせ、大助は少し離れたところでまた身構えた。 「いやだなんぞと吐《ぬ》かしやがったら、そこで裸にひん剥《む》いちまうからな」  やれやれえ、という声に励まされて関東やくざがずかずかと鈴江に近づいた時、うしろの方の席でおいよさねえか龍三という凄味《すごみ》のこもった声がして、親分たちよりはずっと歳をとっているかに思える和服姿の小柄な老人が立ちあがった。  全員の注目の中を、老人はゆっくりと正面へ歩きはじめた。龍三と呼ばれた男がたったひと声で立ちすくんでしまっているところから判断して、老人はよほど若い連中から怖《おそ》れられている存在に違いなかった。 「あれ、誰ですか」大助はすぐ傍に立っているE・G・ロビンソン刑事に小声でそう訊《たず》ねた。  中二階のバーから手助けに降りてきているロビンソン刑事が、唸《うな》るような声で答えた。 「さっきバーで若い連中が喋っていた、水野組の組長の叔父にあたる源三郎という男に違いない」彼はうなずいた。「人を何人か斬り殺しているそうだよ」  老人は車椅子の喜久右衛門の前に進み、懐かしそうに声をかけた。「喜久さん。わしを憶えていないかね」 「源さん。あんたは源さんじゃないか」喜久右衛門の眼に喜びの光が宿り、それは彼の顔が歪むと共にたちまち涙になった。「あんたはまだ、生きとったのかね」 「この通り元気だよ」さしのべられた喜久右衛門の両手を両手で握り返しながら源三郎は大きくうなずいた。「あんたが素姓を隠していたあん時ゃあ、わしゃあんたをただの旅烏じゃねえと睨んでいたが、やっぱりこんなに立派になりなさったんだね」 「源さん。ああ源さん。わしは、あんたみたいな向こう意気の強い人があんな世界で長生きできるわけはないと思っていたんだよ。生きとったんだね。よく生きていた。よく生きていた」  手の甲で涙をさっとひと拭きしてから源三郎は全員を振り返った。「お前たち。この人の誕生祝いのこの宴会をぶち壊しにしようなんて考えるやつがいたら、この水野源三郎が承知しねえからそう思え。お前らは知らねえだろうがこの方はな、昔水野組とシマを争っていた夏目組のやくざ五、六十人がいるところへ、亡くなったもとの大親分とこのわしがたった二人でなぐりこみをかけようとした時、助《すけ》っ人《と》をしてくださった方だ。たった四、五日|逗留《とうりゅう》なすった義理だけでだぞ。そういう度胸のある方で、だからしてどだいお前たちなんぞがいくら凄んだって相手にもしなさらねえ。そうとも。だいたい水野組の今日あるのはこの方のお蔭《かげ》と思いねえ」 「源さん。若い者に昔のことを言うのはよくないよ」喜久右衡門がうしろから源三郎を制止した。「それよりも源さん。顔をもっとよく見せてくれ。源さん。わしはのう、ちょうどさっき、若い頃のことを思い出していたところだったんだよ。この若い連中、どいつもこいつも、みんなあまりにもわしの若い頃そっくりで、わしはまるで若い頃の自分を見ているような気がしておった。ああ源さん。わしら、あの頃は若かったのう」 「そうだとも。そうだとも」喜久右衛門の手をとり、泣きながら源三郎はいった。「あの頃は若かった。憶えているかい喜久さん。あのあと、路地で待ち伏せてやがった夏目粗の連中の匕首《あいくち》とりあげて、逆にこう、ぶすりとやった時」 「げ、源さん。源さん」喜久右衛門はいささかうろたえて源三郎の話を押しとどめた。「そういう話はここじゃあまずい。どうだね。今夜はわたしの邸へ来ないか。つもる話を語り明かそうじゃないか」 「あんたはやっぱり、いい人だ」源三郎はうなずいた。「こんなに立派に出世していながら、大昔の仲間のこんなわしを、厭がりもせず屋敷に招いてくれる。ああ。ぜひ行かせてもらうよ。しかしこの宴会が終るまではこの場を離れるこたあ出来ねえ。若い連中のお目付役を仰せつかっているのでな」 「いいとも源さん。もともとこれはわしの誕生祝いだ。終るまであんたを待つよ」  それからは源三郎が睨みをきかせたためかさほど座が乱れることもなく、晩餐会は無事に終った。終ったあとも居残って意地汚く飲み続ける者がいるだろうという刑事たちの予想を裏切り、意外にも両親分が命令すると全員さっと引きあげてしまって、それはまるで両方の組員が、明日の談合までは互いを避けようと努めているかのように刑事たちには思えた。  連れ立ってホテルを出た神戸喜久右衛門と水野源三郎がその夜神戸邸でどのような話をしたか、その詳細を書く余裕がないのはまことに残念である。喜久右衛門の一代記なども小説すれば波瀾《はらん》万丈の巨篇となるのだが、これも割愛しなければならない。  宴が終って三十分ほど経った八時四十分前後に、ジョー・J・ジョーダン夫妻が到着した。総支配人は夫妻を自分の部屋に案内した。ジョー・J・ジョーダンは株式仲買人という職業にふさわしいやや派手な服を着た金髪の中年男で、ジョーダン夫人のリタは夫とは対照的に地味な身なりをしていて、夫とはさほど歳の違わぬ上品な美人だった。  総支配人があらまし事情を説明し終えたころ、英会話の達者な神戸大助を従えて三宅警部が部屋に入ってきた。  ジョーダン夫人がちょっと驚いてのけぞった。「OH。ボギー」  事情はおわかりいただけたと思うので、どうか他のホテルにお移り願いたい、そのホテルの予約はすでにしてあるからという意味のことを大助の通訳で三宅警部が言うと、総支配人の想像していた通りジョーダンはかぶりを振った。ノー。ノー。わたしは望まない。ここから他のホテルに移ることを。ビコーズそのホテルはあまりにもここよりロング・ディスタンスに存在しワイフは疲労している。このホテルに泊ってもそれだけ多くのディティクティヴがいるのならばパーハップス安全であろう。モアザンオール明日は早く起きてここから県内の観光地めぐりに出発する予定なのだ。  ジョーダン夫人が夫に、わたしならそれほど疲れていないからよそのホテルへ行きましょうと横から口をはさんだにかかわらず、ジョーダンはやはりここへ泊めてくれと言い張り、しかたなく三宅は折れた。 「六階は全フロアー空いているか」 「全部空室です」と、大助は答えた。「そのため六階のフロアー・ステーションにはルーム・ボーイを配置していませんが、そのかわり十時以後の深夜には五階のルーム・ステーションを部屋係の本部にし、わたしがずっと詰めていますから警備は充分できます。ジョーダンご夫妻には六階のいちばん奥、あの非常出口の横にあるスイートに泊ってもらえば安全でしょう。われわれもせいぜい六階を見まわりますから」  話が決まり、ジョーダン夫妻は総支配人、三宅警部、神戸大助と握手を交した。ジョーダンもいざ泊まるとなるとさすがに少しは心配になってきたらしく、三宅や大助と握手する時はくれぐれも警護をよろしく頼むといった意味のことをつぶやきながら頭を下げた。  ジョーダン夫妻が六階のスイート・ルームに落ちついた直後の午後九時二十分、ルーム・メイドをやっていた防犯課少年係の早野というでっぷり肥った婦警が、福本組のやくざに、その男の部屋で襲われた。  水割りセットを持ってこいという電話で四百十八号室へウイスキーやバケットを運んでいった早野が十分経っても帰ってこないので、大助は狐塚に連絡し、様子を見てきてくれと頼んだ。狐塚が部屋を間違えたふりをして四百十八号室へ入っていくと、ちょうどその部屋の男に襲われた柔道四段の早野があべこべにその男を壁ぎわへ投げつけたばかりのところで、男は壁ぎわにうずくまり、手足をひくつかせ、脳震盪《のうしんとう》を起していた。さっそくホテルの嘱託医がとんできて手当てし、息を吹き返したその男に早野が詫び、大助がどうぞこのこと、ご同行の皆さまにはご内聞にと頼めば、やくざの方だって襲った女に投げられたなどと自らふれ歩く気はまったくない。かくてこれはたいした騒ぎにもならずに一件落着。  午後九時五十分頃、今度は中二階のバーでひと騒ぎもちあがった。狭いバーを占領して飲み続けていた水野組の若い連中十数人のうちのひとりが、バーテンダーのE・G・ロビンソン刑事にからみはじめたのである。しまいにはカウンターの中から出てきて酒を運んでいたロビンソンの顔にグラスのウイスキーを浴びせかけ、顔を拭いながらじろりと睨んだロビンソン刑事のその顔つきが気にくわないというので、ウイスキーの瓶をとり、洋酒の並んでいるバック・バーめがけて投げつけようとした。その腕をロビンソンがねじあげる。やくざ共が全員立ちあがる。今にも乱闘が始まろうという時ロビンソン刑事が大声で凄んだ。おれを知らねえかこのわれは、今でこそバーテンダーをしているがこれでも昔は日本全国の大親分衆にちったあ顔の売れた一匹|狼《おおかみ》。十人以上殺していて三十人以上片輪にしている。今夜はその数をふやそうかと言って職掌柄丸暗記している全国組長の名をずらずらあげつらねたものだから今度はちんぴら達が青くなり、兄貴その男は酒癖が悪いのでおれたちも困っている。兄貴がこらしめてくれたのでその男も少しは懲りただろう。失礼は幾重にもお詫びするのでもう許してやっていただきたいと頭を下げ、これもあっけなく一件落着。  といった具合で、その他二、三起りかけた揉《も》めごともすべて周囲の刑事たちによって比較的穏便に片附《かたづ》けられ揉み消されて、次第にホテルの夜は更けていった。組員連中たいていは気のあった者同士が誰かの部屋に集ってここでルーム・サーヴィスの酒を飲みながらちんちろりんやこいこいのご開帳。あまり出歩くなとでも言い含められているのかホテルから夜の町へ出て行った者はごく僅か、せいぜいちんぴら二、三人とか四、五人とかのグループが七、八組で、尾行した刑事たちによれば連中土地勘のない見知らぬ町ではどの店へ入ってもあまり大きな顔ができず、金もあまりないので豪遊もできず、つまらなそうにしていたらしい。そういう連中も十時を過ぎた頃には三三五五ホテルへ引きあげてきた。通行人にたかって金をまきあげようとしたグループがひと組だけあったが、これはたちまち尾行していた刑事に現行犯で逮捕され、そのまま署へ直行である。  午後十時二十分、ジョー・J・ジョーダンがフロントへやってきた。布引の乏しい語学力で彼の話を判断すると、ワイフは疲れてぐっすり寝ているが自分はハングリイで眠れず困っている、ダイニング・ルームはもう閉まったらしいので外へ食べに出かけるのを許可してくれと、どうやら何かそのようなことを言っているらしい。別段出てはいけないという理由もないので、布引は彼の外出を認め、ドアマンのキャグニイ刑事が玄関を出て繁華街の方へ歩いていくジョーダンを見送った。  夜がふけたとはいえもともと夜の闇を徘徊《はいかい》するのが好きないわば夜の男ばかりが集っているのでなかなか寝ようとはしない。狐塚や大助たちはあいかわらずあっちからも呼ばれ、こっちからも呼ばれ、休む間もないいそがしさである。その間を縫って狐塚は性懲りもなく三宅警部のところへとんでいき、あの部屋では大金を賭けて開帳している、あの部屋のやつは拳銃を磨いていた、逮捕しないのかさせてくれと、もはや眼球は完全に吊《つ》りあがり、泡を吹いての抗議である。とにかく明日の午後まで待てと三宅警部がいくら宥《なだ》めてもまたぞろ汗びっしょりになってとんでくるという有様。  午後十一時五分、五階のフロアー・ステーションに詰めていた大助たちは、突然起った銃声に驚き、断続的に聞こえ続けているその音をたよりにいそいで従業員用の階段へ出た。銃声は六階で起っていた。ボーイ姿の自分たちがとび出して行ってはまずいと判断した大助は、ルーム・ボーイ役の刑事のひとりに、警備員詰所で待機している警備員姿の刑事たちに連絡するよう命じ、引き返させた。大助ともうひとりの刑事が六階まであがっていって廊下をうかがうと、数人の男が壁の蔭に身をすくめ、拳銃を握った手だけのばしてエレベーター・ホールの中へ銃弾を撃ちこんでいるうしろ姿が見えた。どうやら銃撃戦はエレベーター・ホールを中にはさんで行われている模様であった。廊下のカーペットの上では、肩を撃ち抜かれたらしい組員が血を流し、呻《うめ》きながらのたうちまわっている。  双方が拳銃の弾丸をあらかた撃ち尽した頃、警備員の服装をした刑事たちが十数名エレベーターで到着し、たちまち六階にいた組員全員が逮捕されてしまった。ひとり、廊下を奥へ逃げながら振り返って、追ってくる刑事に発砲したやつがいたが、あべこべにたった一発威嚇射撃をされただけで腰を抜かし、床にへたりこんだ。  六階にいたのは福本組七名、水野組八名で、そのうち拳銃を持っていたのは十名だった。肩を撃ち抜かれていたのは福本組の組員で、他に水野組の組員一名が胸部を撃たれて重傷、軽傷は双方で六名だった。組員たちは取調べを受けるため地階の従業員控室へ連行され、重傷者二名は病院へ運ばれた。 「スイート・ルームの様子を見に行こう」駈けつけた猿渡が大助にそう言った。 「そうだな。ご夫婦が銃声で驚いているだろう」 「いや。旦那は外へ食事に出て、今は夫人だけだ」  広くながい廊下を歩きながら大助は言った。「この通りスイート・ルームは撃ちあいの現場からだいぶ離れているし、寝室はドア二枚で廊下と隔っている。ジョーダン夫人がとばっちりを受けたなんてことはまずないだろうし、銃声もそれほど大きくは聞こえなかったんじゃないかな」 「うん。もしぐっすり寝ているのなら、起すのは気の毒だね」  スイート・ルームのドアには鍵がかかっていた。 「ロックしてある」と、猿渡はいった。「中も静かだ。寝ているんだろう」  エレベーター・ホールの近くまで引き返してきてから、大助が立ち止った。「でも、あの銃声でひどくおびえているってこともあり得るぜ。もしそうなら、安心させてあげなくちゃ」  猿渡がにやりとした。「そうだね。あの奥さんのネグリジェ姿はおれも見たい。ただし英会話は君にまかせるぜ。君の方がうまいからな」 「とにかくチャイムを一回だけ鳴らしてみよう。それで出てこなければぐっすりお寝《やす》みなんだろう」  二人がまたスイート・ルームへ戻ろうとした時、エレベーター・ホールからジョー・J・ジョーダンが出てきて大助に英語で訊ねた。「そこにいっぱい人がいて、あそこに血が流れていた。何があったのですか」 [#挿絵(img/233.jpg)] 「いいところへ帰ってきてくださった。ジョーダンさん。実はあなたが食事に外出されている間にこんなことがあった」大助が事件を説明した。「と、いうわけですから、もし奥さんが怖がっておいでのようであれば、もう心配はないと、そうお伝え願います」  わかった、というように二、三度うなずいてから、ジョーダンはちょっと首を傾《かし》げた。 「それにしてもおかしいですね。この階にはわたしたちだけしか泊っていないのに、どうしてこんなところで撃ちあいを始めたのでしょう」  大助も首を傾げた。「よくわからないのです。もっとも、連中は自分たちの部屋の階数を間違えてばかりいますがね」  ジョー・J・ジョーダンがキイのついた鎖を振りまわしながらスイート・ルームの方へ歩み去るのをしばらく見送ってから、大助と猿渡はエレベーター・ホールに戻った。エレベーター・ホール周辺にはまだ数人の刑事がいて、壁にめり込んだ銃弾を掘り出すなどの作業を続けていた。  二、三分ののち、何やら大声でわめく声がして、それが近づいてきたかと思うと、ジョー・J・ジョーダンが血相を変えてエレべーター・ホールに駈けこんできた。「ワイフが殺されている」  後頭部への鉄槌《てっつい》のような衝撃で大助ははねあがった。猿渡と競走でスイート・ルームへ駈けつけるまでの間にも大助の頭には、安易にこんな作戦を提案してしまった自分の刑事としての責任、と同時に客の安全を保ち得なかったルーム・キャプテンとしての責任が二重にのしかかり、渦巻いていた。  ドアを開けっぱなしのスイート・ルームにとびこむと、部屋の中央に置かれてあった筈の背の低いテーブルが壁ぎわでひっくり返っていて、寝室へのドアは開いていた。ジョーダン夫人のリタは寝室のいちばん奥の窓の手前に倒れていた。額を射抜かれていた。この部屋のテーブルもひっくり返っていた。窓のガラスは破れていて、サイド・テーブルの上のナイト・スタンドは撃ち砕かれていた。弾痕《だんこん》はさらに寝室の壁の二カ所にあった。 「やつら、こんな部屋にまで入ってきて撃ちあいをやりやがったんだ」茫然として猿渡が呟《つぶや》いた。  わめき続け、大助に食ってかかるジョーダンを、あとから駈けつけてきた刑事たちが部屋の外へつれ出した。  三宅警部が入ってきて、ジョーダン夫人の死体の上に、まるでのめりこむような姿勢でうずくまり、うちのめされた声で呻いた。「どうしてこんなことに」怒気を漲《みなぎ》らせ、立ちあがった。「撃ちあっていた連中を徹底的に調べあげて、こんなことをした張本人を見つけてやるぞ。県警本部から殺人課の連中が来るまでにな」  午前一時、ホテルの一階ロビーに三宅警部、県警本部組の三人の刑事、神戸大助、鶴岡、狐塚、布引、猿渡の九人が集った。仲間が撃ちあいをして逮捕されたということを聞きつけ、さっきまで騒いでホテルマンに化けた刑事たちを手こずらせていた組員連中も、今はもうそれぞれの部崖にひきこもり、ホテルの中はやや静かになった。しかし六階の殺人現場ではまだ鑑識課などの地道な捜査活動が続けられている。 「ジョーダン氏はどうしている」 「総支配人室にいます。もう、だいぶ落ちついたようで」三宅警部に布引が答えた。  いつも笑っているような布引の表情に慣れていない三宅が、ちょっといらいらした口調でさらに訊ねた。「なぜ、外出する時ドアのロックを忘れたのか、聞いたかね」 「わたしの乏しい英語の力でだいたいのところを聞きましたが、ロックはした筈だ、と言っています」布引は無邪気そうな表情のままでそう言った。「だいたいこのホテルのドアは握りのボタンを押して閉めればロックされる仕掛けの夜錠《ナイトラッチ》ですから、いったん閉めたら外からは開けられません。ただ、ドア・チェーンをかけていなかったことだけは確かだそうです。ジョーダン氏は出かける時、熟睡している奥さんを起すまいとして、わざわざ奥さんに中からドア・チェーンをかけさせることはしなかったそうです」 「なんてことだ。要心するようにとくれぐれも言っておいたのに」三宅はしぶい顔をした。 「じゃあ、奥さんがドアを開けて、撃ちあっているやくざ達を室内に入れたというのかね」 「あるいはロックされていなかったか、どちらかでしょう。しかし、ジョーダン氏が記憶していないにしても、習慣として普通ああいったドアを閉める時には無意識的にボタンを押す筈です」布引は喋《しゃべ》り出した。「だから、こう考えてはどうでしょう。エレベーター・ホールで喧嘩《けんか》があり、ひとりが奥まで逃げてきて廊下の突きあたりに追いつめられた。そこで藁《わら》にすがる気持ですぐ横のスイート・ルームのドア・チャイムを鳴らした。奥さんは、ジョーダン氏が戻ってきたと思い、うっかりドアを開けた。やくざが逃げこむ。追いかけてきたやつもとびこんでくる。そして拳銃を四、五発ぶっぱなす。それが奥さんに命中する」 「ぼくもそうだと思います」猿渡が口をはさんだ。「鑑識の方のお話では、寝室の中で発見された弾丸四発はすべて同じ拳銃から発射されたものだったそうです。と、いうことはつまり、逃げてきた方のやつは拳銃を持っていなかった、あるいは弾丸を撃ち尽していたということになります。だからこそ逃げてきたんでしょうし、逃げ場に困ってドア・チャイムを鳴らしたりもしたんでしょう。テーブルが引っくり返されていたのも、あれで弾丸を防ごうとしたからではないかと」 「推測ばかり喋っていても、どうにもならん」たまりかねたように狐塚が怒鳴った。「いったい、撃ちあっていた組員たちはどう言っとるのですか。どっちにしろあの十五人の中に犯人がいることは確かなんでしょうが」  今まで地下の従業員控室で個別に組員たちを取り調べていたワーナー・ブラザース組の三刑事が、途方に暮れたような表情で顔を見あわせた。 「それがどうも、連中の話というのがまったく要領を得んのですよ」代表してE・G・ロビンソン刑事が報告しはじめた。「全員、口裏をあわせたように、自分が六階へ行った時にはもう撃ちあいは始まっていたというのです。つまり誰が撃ちあいを始めたのかわからんというのです。誰かが嘘をついているのだと思いますが、両方の組員が全員集って、口裏をあわせるよう打ちあわせをする機会など一度もありませんでしたからね。逮捕してすぐ、全員ひとりひとりを別べつにしたわけですから」 「おかしいですな」鶴岡が眼鏡を光らせた。「では連中はなぜ六階へ行ったのですか」 「六階で撃ちあいが始まっているので来てくれという電話が部屋にかかってきたからだというのです。全員がそういうのですよ」ピーター・ローレ刑事が困惑の表情をあからさまにし、非常に悲しげにそう言った。「しかもその声が誰の声だかわからないというのです。ひとりの男などは、聞いたことのない声だったと断言しておりました。相手方の組員が間違えて電話してきたに違いないと言っております」 「六階のフロアー・ステーションは無人で、館内電話がある。あそこからかけたのだろうが」三宅は唸った。「それにしてもいったい誰が」 「重傷で病院へつれて行かれた二人のうちのどちらか、あるいは両方ですよ」キャグニイ刑事がいやにきっぱりと断言した。「あの二人が最初に六階で喧嘩をはじめた。OK。ひとりが逃げ、ひとりが追いまわした。片方がスイート・ルームにとびこんだ。もう片方があとからとびこんできて、間違えてジョーダン夫人を射殺してしまう。あっ。しまった。あわてる。うろたえる。その間に片方はフロアー・ステーションまで逃げてきて仲間に電話する」 「どうしてそんなにはっきり言えるのですか」狐塚がいささかあきれて訊《たず》ねた。 「取調べた残りの十三人のうち、嘘をついているやつはひとりもいないからです」キャグニイは鼻をうごめかせた。「連中がもし嘘をついているとすれば、わたしにはすぐわかる。奴らは全員本当のことを言っています」 「あいかわらずの自信だな」三宅が苦笑した。 「撃ちあいの直後、ぼくと神戸刑事が様子を見に行った時、スイート・ルームのドアはロックされていました」と、猿渡がいった。「夫人を殺したやつは、あわてている癖になぜわざわざドアをロックしたりしたんでしょう」  キャグニイ刑事はちょっと自信なさそうに全員の顔を見まわした。「現場の発見を少しでも遅らせようとしたんだろうな」 「いや。やはり誰かが嘘をついているよ」メモ用紙を見ていたロビンソン刑事が、顔をあげずに言った。「わたしが調べたところによるとですな、電話がかかった部屋は三百二号宝、三百八号宝、四百二十号室、四百三十九号室、五百四十六号宝、五百四十八号室の六つです。そのたいていの部屋に二人以上が集って賭博や猥談《わいだん》をしておった。そして重傷を負った二人のうちのひとり、水野組の男の方は、それまで四百三十九号室にいて、電話を聞いてはじめて仲間と一緒に六階へ駈けつけています。同室していた男の証言です」 「それがそもそも嘘かもしれませんね」ピーター・ローレ刑事があいかわらずの泣き顔で口をはさんだ。「他《ほか》にも嘘をついているとしか思えない点があるのですよ。最初に六階へ駈けつけたのは四百二十号室にいた連中ですが、遠くで銃声はするものの、どこで撃ちあっているかわからず、拳銃を出して構えたままうろうろしているうちに、続いてエレベーターから出てきた五百四十八号室の男たちとぶつかり、相手がだしぬけに撃ってきたのだと言っているのです。五百四十八号室の連中に言わせれば、あっちが拳銃を撃ってきたので応戦しただけだというのです」 「そりゃまあ、互いに相手の方からしかけてきた喧嘩だと主張した方が有利だから、それぐらいの小さな嘘はつくでしょうが」キャグニイ刑事がしかたなく譲歩した。「どうせ両方とも拳銃は構えていたのだし」 「そういった小さな嘘はともかく」神戸大助がはじめて口をはさんだ。「原則的に、彼らが嘘をついていないものとして考えて見ればどうでしょうか」 「うん。わたしも今それを考えていたところだ」三宅警部は大助を見つめた。「だがな。そうだとするとあの十五人のうちにジョーダン夫人殺しの犯人はいないということになってしまうんだ。つまりあの十五人以外に犯人がいて、四百二十号室の連中が最初に六階へ駈けつけた時に聞いた遠くの銃声はスイート・ルームで犯人が拳銃を撃つ音だった。そしてそいつは、またはそいつらは、刑事たちが六階へ駈けつけるまでに階下へ逃げてしまった」 「それは考えられません」大助は言った。「エレベーター・ホールがあの状態ですから、エレベーターには乗れなかったでしょうし、階段の方には銃声が起るなりわれわれが駈けつけていますから、降りてこられた筈はありません。それに今夜だけは特に、屋外の非常階段に出る非常口には鍵をかけていましたし」 「じゃ、まだ六階に潜伏しているというのかい」猿渡が訊ねた。 「いや。あの直後確認しましたが、他の者は全員自分の部屋にいました」と、布引は断言した。  鶴岡は怪訝《けげん》そうに大助を見た。「じゃ、いったい誰が」彼は急に、からだをしゃちょこばらせた。「神戸君。まさか君は」  大助はうなずいた。「そうです。ジョーダン夫人を殺したのは、ジョーダン氏ではないかと思うのです」 「冗談じゃない」と狐塚が怒鳴った。 「いいえ。冗談じゃありません」 「どっちが本当だ」三宅警部がいらいらした表情で言った。 「君がこんな作戦を提案したため、客が殺されたんだ」狐塚はいきり立ち、大助に指をつきつけた。「今度は被害者の夫が犯人だなどととんでもないことを言い出す。それじゃ君は責任のがれをしたがっていると思われてもしかたがないんだぞ」 「ちょっと待ってくれんか。狐塚君」鶴岡はおだやかに狐塚を制した。「では神戸君。ジョーダン氏はやくざ同士の撃ちあいが終ったあと、部屋へ帰ってきた時に夫人を射殺したというのかね」 「それならぼくたちに銃声が聞こえた筈だ」と、猿渡が言った。「たとえあの部屋が廊下の端であっても、同じ階だし、それに深夜だ。四発もぶっぱなせばエレベーター・ロビーにいるぼくと神戸君に聞こえなかった筈がないのです」猿渡は並んで腰かけている大助の方を振り向いて訊ねた。「それとも君はジョーダン氏が外へ食事に出かける前に夫人を射殺したというのかい。つまり十時十分か二十分ごろ」 「いや。そんな筈はない」三宅はかぶりを振った。「わしの見たあの死体は射殺された直後のやつだった。鑑識もそう言ってる」 「つまりぼくは、最初に六階へ駈けつけた組員連中の言う、遠くで聞こえた銃声というのが、ジョーダン氏の撃った音ではないかと言っているんです」大助はちょっといら立たしげにそう言った。 「その時刻、ジョーダン氏は外出中だよ」布引が言った。「撃ちあいが終った直後、外から帰ってきた。ぼくがフロントで鍵を渡したんだから」 「うん。それは確かだ」ドアマンのキャグニイ刑事も大きくうなずいた。「彼が外から戻ってきたのは午後十一時二十分ごろだ」 「それは確かに外から戻ってきたのでしょうか」 「なんだって」キャグニイ刑事はきょとんとして大助を見つめた。 「門のすぐ横の枝折戸《しおりど》からは建物を迂回《うかい》してホテルの裏庭園に出られます。車寄せがあるからドアのあたりは建物の中へだいぶ引っ込んでいて、あの辺までは眼が届きません。ジョーダン氏が庭から出てきたのか、外から帰ってきたのか、あなたにはよくわからなかった筈ですが」 「暗かったしな」キャグニイが唸《うな》った。「するとあんたはジョーダンが庭園へ行き、非常階段で六階へあがったというのかい」 「そうです。そして夫人を射殺し、また非常階段を降り、何くわぬ顔で玄関から」 「駄目だだめだ。非常口にはすべて鍵がかかっているよ」狐塚が軽蔑《けいべつ》したように口もとを歪めて笑いながら言った。「特に外からは絶対に開かない。内側からだと普段は開くのだがね。今夜に限り、すべてに鍵をかけてしまった。やくざ共がこっそり出て行ったりしないようにな。そのことはさっき君も言っていた筈だが、今は都合よく忘れたのかね」 「そう。だからやっぱりやくざがやったんだ」布引が狐塚に同調した。「追いつめられたやくざがスイート・ルームに逃げこもうとしたのは、そもそも廊下の突きあたりのあの非常口が開かなかったからなんだ」 「実はぼく、さっき、非常階段を六階まで昇ってみたんです」と、大助は言った。「試してみますと、非常口から入らなくても、あの階段の六階の踊り場にあるパイプの手摺《てす》りから身をのり出せば、スイート・ルームの寝室が覗けるのですよ」  全員が身をこわばらせ、一瞬沈黙した後、いっせいに喋りはじめた。 「外から弾丸を撃ちこんだのか」 「それで窓ガラスが破れていたんだ」 「わしもおかしいと思っていたんだ。ドアからやくざどもがとびこんできて中で撃ちあいを始めたのなら、夫人は奥の寝室へなど逃げこまず、廊下へとび出した筈だものな」 「ジョーダンはどうやって夫人を窓ぎわまで呼び寄せたのでしょう」 「窓ガラスを叩いたんだろう」 「じゃ、ジョーダンは今でもまだ拳銃を持っているのかい」 「まさか。そんなものホテルへ持って戻ってくる筈がない。発見されたらおしまいだ」 「じゃ、庭園のどこかへ埋めたことになるぞ。だって庭からまっすぐ戻ってきたんだろう」 「よし」三宅警部がキャグニイ刑事に命じた。「三、四人つれていって庭を捜せ」 「OK」キャグニイが出て行った。  狐塚が大助を睨《にら》みつけながら言った。「外からガラス越しに撃ちこんだのであれば、庭園の、あの部屋の真下にあたる場所にはガラスの破片は落ちていない筈だが、その点も調べたんだろうな」 「調べましたが、落ちていました」大助が残念そうに言った。  鶴岡が、なぐさめるようにうなずいた。「それはしかし、ジョーダンが部屋へ戻ってから、室内のガラスの破片を窓の破れめから外へ投げ捨てたものだとも考えられる」 「きっとそうですよ」猿渡がいきごんで喋りはじめた。「あいつはエレベーター・ホールの近くでぼくたちと立ち話をしてから部屋に戻り、床に落ちているガラスの破片を拾って地上へ投げ捨てた。あっ。それから、乱闘が行われたように見せかける為《ため》に、あのテーブルも自分でひっくり返したに違いないぞ」  大助は顔をあげた。「そうです。あのひっくり返ったふたつのテーブルには、ジョーダンの指紋しかついていない筈です」 「六階へ行って鑑識の結果を聞いてきてくれ」三宅がピーター・ローレ刑事に命じた。「それからもうひとつ。窓の外から撃った弾丸が夫人の頭を貫通したのであれば、室内で発見された弾丸のどれかに夫人の血液が附着していた筈だ。それも確かめてきてくれ」 「かしこまりました」ピーター・ローレがていねいに一礼して立ち去った。 「わしはやっぱり、あの部屋の中にあった弾丸はやくざ共の持っていた拳銃のどれかから発射されたものだと思うよ」狐塚が頑固に言い張った。「今ごろはもう鑑識の結果が出ているだろう」 「そうですよ」と、布引が言った。「窓の外からジョーダンが撃ちこんだのであれば、ガラスの破れ目が一カ所だけというのはおかしい。四発も撃ちこんだのならガラスはもっと滅茶苦茶《めちゃくちゃ》になっている筈だ」  大助は負けずに言い返した。「夫人を射殺したあと、ガラスの破れめから手を突っこみ、角度を変えて壁に二発撃ちこんでからさらに大きな音がするようわざとナイト・スタンドを撃ち砕いたのだと思います」  狐塚は顔を歪めた。「弾丸をいっぱいぶち込んだり、テーブルをひっくり返したり、なぜそんなことをする必要があったんだね」 「われわれに対しては、やくざが撃ちあったように思わせる為です」と、大助は言った。「そしてやくざたちに対しては、いかにも彼らの仲間が六階のどこかで撃ちあっているように思わせる為です」  全員があっけにとられ、猿渡までがやや非難する眼で大助を見た。 「ジョーダンはその時間に組員たちが撃ちあうことを前もって知っていたというのかい」 「というより、ジョーダンが彼らに撃ちあいをやらせたんだと思う」 「どうやって」狐塚の声はもはや怒号だった。 「組員たちの部屋へ電話をかけたのがジョーダンだというんだね」と、鶴岡が訊ねた。「つまり電話は館内からかかってきたのではなく、ジョーダンがホテルの外の、公衆電話か何かからかけてきたものだと」 「そういうことです」 「信じられん」三宅警部はかぶりを振った。「しかし電話が外部からかかってきたものかどうかは確かめておく必要がある。もしそうだとすれば電話交換台の記録に残っている筈だな」 「調べてきましょう」E・G・ロビンソン刑事がいそいで立ち去った。  しばしの沈黙のあと、突然狐塚が爆発するように笑い出した。「わはははははは。何を言ってるんだ。忘れたのか。ジョーダンは日本語を喋れないんだぞ。わしもそうだが、みんな、なぜそんなことに気がつかなかったんだ」 「ジョーダンは日本語を知っていると思います」大助はそう言った。  がく、と狐塚の顎《あご》がさがった。 「キャップ。憶《おぼ》えておられますか」大助は三宅を見つめて喋りはじめた。「総支配人室でジョーダン夫妻とはじめて会った時、キャップはわたしに、六階は全フロアー空いているかと日本語でお訊《き》きになりました。で、わたしは空室だと答えました」 「うん。憶えているが」  大助は猿渡に向きなおった。「廊下で外出から戻ったジョーダンがどう言ったか憶えているかい」  猿渡は大きくうなずいた。「この階にはわたしたちだけしか泊っていないのに。たしかそう言ったな。英語でね」 「しかしそのことは、われわれが行く前にすでに総支配人から聞いていたのかもしれんな」三宅が考えこんだ。 「さらにあの男は、われわれと握手をする時に頭を下げました。握手をしながら顔を下げる白人は、たいてい日本人と長くつきあったことのあるやつです」大助は自信ありげにそう言った。  ハンカチでくるんだものを手にして、キャグニイ刑事が戻ってきた。「拳銃がありました。庭石の下の土を掘り返して埋めてあったんです」  六階からはピーター・ローレ刑事が戻ってきて、大助の顔を感心したように眺めながら報告した。「このかたのおっしゃっていた通りです。テーブルにはジョーダンの指紋しかついていませんでした。なお、室内で発見された弾丸のひとつには夫人のと同じ血液が」  E・G・ロビンソン刑事が戻ってきてメモを見ながら報告した。「午後十時五十分から五十六分の間に外部から続けさまに九回、同じ男の声で各室へ電話があったそうです。そのうち三回はつないだ部屋に人がいなかったのでしょう。九つのうち六つの部屋の番号は、さきほどわたしが申しあげた六つの部屋の番号とぴったり一致します」 「よし」三宅警部は何やら決意した表情で立ちあがった。「ジョーダンが日本語を知っているかどうかを確かめに行く。全員、ついてきてくれ」  ジョー・J・ジョーダンは総支配人室の応接セットでドアに背を向け、総支配人の真田と何ごとか話しあっていた。  刑事たちの先頭に立って部屋に入った三宅警部が日本語《ヽヽヽ》で怒鳴った。「ジョー・ジェームス・ジョーダン。お前を妻殺しの容疑で逮捕する」  ジョーダンは椅子の上でとびあがった。 「ニューヨーク警察がこちらの問合せに対してこんな返事をしてきた」  ふたたび署に戻った特別対策本部の会議の席で、三宅警部が大勢の刑事を前に、メモを見ながら説明しはじめた。「ジョー・J・ジョーダンはながい間日本の米軍基地に勤務していた経験があり、その時憶えた日本語を生かしてその後もしばしば来日、麻薬の取引などをしていた。札つきの不良外人として日本の警察からもマークされていたそうだ。最近は破産寸前で多くの負債をかかえ、金を借りているニューヨークのギャング達から脅迫されていたらしい。殺されたリタさんという女性は親の莫大な遺産を相続したオールド・ミスで、ジョーダンはこの女性をうまくたらしこみ、金が目あてで結婚した。さて、以下はジョーダンの自白によるものだ。あいにくリタさんには後見人がいて金が思うようにならなかったので、ジョーダンは彼女を殺そうと考え、彼女と共に世界一周の新婦旅行に出かけた。ヨーロッパのどこかで殺してしまうつもりだったらしいんだな。ところがなかなかその機会がないままとうとう日本まで来てしまった。ここでどうしても殺さなければと考えていたら、お誂《あつら》え向きに着いたホテルが暴力団員でぎっしり。ジョーダンは、こいつらに撃ちあいをやらせようと考えた。つまり荒っぽく言えば、殺人を胡麻化《ごまか》せる場所は死体の山の中に限るというわけだ」 「くそ。日本の警察を甜《な》めやがって」狐塚が牙《きば》を剥《む》いた。 「さて事件当夜」三宅は話し続けた。「ジョーダンはリタさんがぐっすり眠ったのを確かめて部屋を出た。途中各階でエレベーターを降り、フロアー・ステーションにいる刑事たちに見つからないよう廊下を歩きまわり、聞き耳を立て、組員がたくさん集っていそうな部屋を見はからってルーム・ナンバーを憶え、フロントには食事に行くと告げて一階の玄関から外へ出た。レストランで食事をすませたのち、ホテルのすぐ前の公衆電話ボックスからホテル内の各室に電話をし、六階で撃ちあっているので応援に来てくれと叫んだ。下手な日本語も叫ぶことによってなんとか疑われずにすんだ。九室にかけたがつながったのは六室だけ。それくらいかけておけば大騒ぎになる筈だと思い、ホテルの門の横の枝折戸から入って庭園にまわり、非常階段を六階まで駈けあがり、スイート・ルームの寝室のガラス窓を拳銃の台尻で強くノックする。リタさんが眼ざめ、びっくりして窓ぎわへ近づいてきたのでこれを射殺。さらにガラスの破《わ》れめから拳銃を握った手を突っこんで壁に二発、ナイト・スタンドに一発。非常階段を駈けおりて庭石の下に拳銃を埋め、正面にまわり、何くわぬ顔でホテルに戻った。彼の楽観的な予想では死体がごろごろ、ホテル中ひっくり返るほどの大騒ぎになっている筈が、豈《あに》はからんや事件はあっさり鎮まって死者も出なかった様子だから、今度はちょっと心配になり、警察がどう思っているか打診するつもりで、六階で会った神戸刑事たちに余計なことを訊ねてしまった。これが命とりになり、日本語を知っていることがばれてしまったんだ。部屋に戻り、テーブルをひっくり返したりガラスの破片を階下に捨てたり、けんめいに偽装工作をやったものの警察の眼は胡麻化せなかった。というより、神戸刑事の眼は胡麻化せなかった、というべきかな」にやり、として三宅警部は大助にうなずきかけた。「参考の為に聞かせておいてもらおうか。いったいジョーダンを真犯人だと思いはじめたきっかけは何かね」 「それはもう、ただの消去法で、あの」全員の注目を浴びて赤くなり、とぎまぎしながら大助は言った。「あの時ホテルには、ジョーダンを除けばあとは警察の人間と組員たち、その二種類の人間しかいなかった。したがって犯人が絶対にやくざでないとすれば、むろん警察の人間ということは考えられませんので、残るところはジョーダンだけでした」 「なぜ絶対にやくざではないと思ったのかね」鶴岡が眼を細めてそう訊ねた。 「あのホテルのドアには魚眼レンズがついています。もしやくざがやってきたのであればリタさんはあの魚眼レンズでそれを知り、絶対にドアを開けなかった筈です」 「どうして絶対になどと言えるんだい」猿渡が訊ねた。「ホテルでの事件というのはたいてい被害者が魚眼レンズで相手を確かめず、ついうっかりドアを開ける為に発生するんだぜ。なぜリタさんだけが、魚眼レンズを覗かなかった筈がないっていえるんだ」  大助はもじもじした。「外国の悪口は言いたくないし、協力してくれたニューヨーク警察にも悪いんだが」 「なるほど。リタさんがニューヨークの人だったからというわけか」三宅はにやにやしながらうなずいた。「そういえばジョーダンの誤算も彼が犯罪都市ニューヨークの人間だったから起ったことに違いない。もしニューヨークであればホテル全体が大騒ぎになる筈だった。ところがあいにくここは日本で、しかも肝心のそのやくざ共たるや」三宅が急に顔をしかめ、大きくかぶりを振った。  全員がげっそりした様子でおお、とか、ああ、とかいいながら口ぐちに呻《うめ》いたり唸ったり、嘆息したりしはじめた。 「やくざの風上《かざかみ》にも置けんやつらだ。まったく人騒がせな」また狐塚が大声で怒鳴りはじめた。「談合、談合というからいったい何どとかと思っていたら姉妹提携とはな」  E・G・ロビンソン刑事がげらげら笑った。「まあ暴力団もそれだけ近代化したんでしょう。兄弟分の盃《さかずき》などという古い形式よりは近代都市並みに姉妹組提携の方がずっと」 「そうですよ。そのお蔭《かげ》でこの町が平穏無事だったのは何よりだし、あの撃ちあいが小規模で済んだのもその為ですからな」布引が言った。「ジョーダンの電話がかかってきた時、奴らはなかなか信じられなかったらしい。なにしろ明日が姉妹提携の日なんですからね。だから他の部屋から助っ人も呼ばず、自分たちだけで様子を見に六階へあがったんです」 「とにかく殺人事件は無事解決。やくざも町から出て行った」三宅は立ちあがった。「これにて対策本部は解散する。おめでとう」 「おめでとうございます」 「おめでとうございます」 「おめでとさん。おめでとさん」署長が踊り出てきた。  この署長だけが、いったいどういう人物でどういう経歴の持ちしなのか、筆者にもさっぱりわからないのである。わかっていることは、とにかく事件が解決されるたびに、その解決された場所がどんなところであろうと必ず踊り出てくるということだけなのだ。それ以上詳わしい説明が何もできないことを読者にお詫びする他はない。  さて最後に神戸大助であるが、このシリーズも今回が最終回なので本来ならば彼が今後ますます刑事として活躍し、いずれは浜田鈴江嬢と結婚するであろうことを読者に暗示して終らせるのが娯楽小説の骨法というものだ。しかしいくら作者でも未来のことだけはわからない。まったくわからない。あるいは神戸大助、警察を馘首《くび》になるかもしれず、鈴江に振られるかもしれず、ことによれば破産などということにも……。 [#改ページ] [#小見出し]  筒井康隆氏『富豪刑事』について [#地付き](「小説推理」昭和五十三年九月号掲載『推理日記』再録)  [#地付き]佐 野  洋   筒井[#「筒井」はゴシック体] デメリットの要素は僕自身の中にあって、僕自身にはね返ってくるんですね。それほど推理小説の骨法を心得ているわけではないし、トリックを考えるのだってそんなに好きではなかったですから。  中島[#「中島」はゴシック体] しかし推理小説の押えるべきところは、きちっと押えているという気がしましたけれど。  筒井[#「筒井」はゴシック体] SF以前は推理小説を読むしかなかったので、一応のことは心得ているつもりですが、やはりしんどかったですね。で、四編書くのに二年半かかりました。時間をかけないと、トリックが固まってこないんですね。  ——これは、新潮社のPR誌「波」五月号に載った筒井康隆氏と中島|梓《あずさ》氏との対談『小説のおもしろさ』において筒井氏の『富豪刑事』に触れる一節である。  これを読んだとき、私は、あれっと思った。中島梓という人は、推理小説が好きらしいな、という意味の「あれっ」である。中島氏が「群像」の懸賞募集評論に入選した方だという知識はあったが、そのいわゆる純文学畑の評論家が「推理小説の押えるべきところは、きちっと押えているという気がしましたけれど」と言い、しかも、それが、『富豪刑事』に対して私が持った所感と一致していた点に、興味を持ったのである。 (余談になるが、この中島氏の別名が、栗本薫であり、氏はその名義で「幻影城」に推理小説の時評を書いていたし、さらに、ことしの江戸川乱歩賞の受賞者になった。中島氏=栗本氏ということを知っていれば、驚くには当たらないことだったのだが……)  ところで、『富豪刑事』が出版されて以来、いろいろな新聞、週刊誌が書評をしているが、私の読んだ限りでは、この作品について、「推理小説の押えるべきところは、きちっと押えている」と指摘したのは、中島氏の言葉だけのようである。(もっとも、私は、書評紙を読んでいないし、読み落とした批評もあるかもしれない。同様なことを書かれた批評があったら、その筆者に失礼なので、お断わりさせていただく)  先にも、ちょっと書いたように、私が『富豪刑事』に最も感心したのは、筒井氏が非常にユニークなキャラクターを使いながら、ちゃんと推理小説(これは広義の推理小説という意味である)にまとめ上げている点であった。  筒井氏が、大富豪の刑事を小説に登場させる、という話は、その第一話が「小説新潮」に発表される以前から、私の耳にはいって来た。筒井氏から電話がかかって来たのか、あるいは、編集者から聞いたのか、記憶がはっきりしていないが……。  だが、それを聞いたとき、失礼ながら、私は首をかしげた。刑事が大富豪だというだけでは、それほど目新しくないのではないか、と考えたのである。例えば、もう十年以上も前になるが、テレビに『バークにまかせろ』というシリーズ物があった。大邸宅に住み、執事を使っている金持ちの警部が、高級車を乗り回し、金にまかせて美人たちとねんごろになりながら、殺人事件を解決して行くというシリーズである。恐らく、筒井氏は、日本の推理小説に出て来る刑事たちが、靴底をすり減らし、昼飯には、安いそばで片付ける、というタイプであることに不満を持ち、金持ち刑事を考えついたのだろうが、靴の代わりに高級車を使っただけでは、『バークにまかせろ』と同工異曲に終わってしまうのではないか。私が、その話を聞いたとき、最初に考えたのは、そんなことであった。  しかし、さすがに筒井氏であった。最初に発表された『富豪刑事の囮』を読んで、私は感心した。  五億円強盗事件の容疑者が四人に絞れたが、その四人のうちの一人を特定し、さらに証拠をつかむために、富豪刑事が、罠を張る ——という内容のが第一話であり、たしかに、これなら、主人公を富豪の刑事にした意味があると思われたのだ。ことに、容疑者たちに、富豪と張り合う気を起こさせるという着想が面白かった。  しかし、私は、これがシリーズになりうるとは思わなかった。刑事と張り合って、金を使いまくる犯人、という設定は、五億円強奪事件には、使えるだろうが、殺人事件には不向きであろう。第一、同じ手を何度も使ったのでは面白くもない……。  ところが、その後、筒井氏は『密室の富豪刑事』『富豪刑事のスティング』『ホテルの富豪刑事』を書き続けた。雑誌にそれらが発表されるたびに、私は、なるほど、こんな手もあるのかと、筒井氏のアイデアに敬服しながら愛読した。(このうち、『密室の富豪刑事』については、推理日記でも、ちょっと触れたことがある)  そして、こんど一冊にまとまった機会に改めて通読し、私は唸《うな》ってしまった。  四編が、シリーズ物でありながら、それぞれ、別のパターンの小説になっているのである。  まず、富豪刑事の金の使い方だが、『囮』では、犯人を特定するため、『密室』では、犯行方法を再現させるため、『スティング』では、誘拐《ゆうかい》されたこどもを救うため、そして『ホテル』の場合は、暴力団を一筒所に集めるという状況を設定するため、と言ったぐあいに、それぞれに趣向が凝らされている。  扱われている犯罪にしても同様である。強盗、放火、殺人、誘拐、暴力団の抗争(とそれに絡んだ殺人)であり、どれ一つとして、同種類のものはない。  そればかりか、作者は、この四編に、必ず一つは、いわゆるトリックを用い、しかもそのトリックを、使いわけでいるのだ。  江戸川乱歩氏の分類に従うと、第一話は犯人発見のトリック、第二話密室、第三話一人二役、第四話群集の中の殺人、ということになろうか。  私がこの推理日記で提出したシリーズ探偵に対する疑問というのは、シリーズ探偵を使うと、どうしても小説の形式がきまってしまうという点にあったのだが、筒井氏は、この四作において、シリーズ探偵でも作品が必ずしもパターン化しないことを示してくれた、と言えそうである。  しかも、これは、作者が意図しないで、自然にそうなったのではなく、意識的に書き分けたものらしい。前記の対談において、筒井氏は、 「僕は読者の、パターンで安心する秩序希求とか、いつもどおりのことが起って、待ってましたと喜ぶ面白さだってわかりますから、そういうものを書いてみたい気持もあります。しかし根本的には、自分自身がそういうものを何度も繰返し読まされたら面白くない。いくらキャプテン・フューチャー(E・ハミルトンの連作スペース・オペラの主人公)だって、十作二十作続いたら面白くない」  と言っている。そして、「書いていて自分が面白くないものは、ボクは書かない」という立場をとっている筒井氏は、シリーズ物であっても、同一形式の作品にしたくなかったのであろう。  そう言えば、形式について触れるのを忘れたが、この四編は、小説の形も、それぞれ変えてあるのだ。『囮』は、刑事が罠をしかけたあとは、容疑者四人が、それぞれ、次第に深みにはまって行く過程を、並列的に書いて見せたが、『密室』では、いわゆる「謎とき」の形式をとるというように……。  そのほかにも、この『富豪刑事』には、興味をそそられる点がある。  例えば、行間を空けずに、どんどん視点や場面を転換して行く方法。(私自身は、これまで、読者の混乱を恐れて、この方法をとれなかったが、『富豪刑事』を読んでみて、作者の計算がしっかりしてさえいれば、読者の方も、さほどまどわないで、ついて行けるものであることを知った)或いは、いわゆる「同時性」の表現。(昔、サルトルの『自由への道』第三部で、これに接して以来、一度、推理小説でもやってみたいと思っていたのだが、やはり、臆病のために、試みていない。筒井氏に、先に試みられてしまった、という感が深い。もっとも、筒井氏の方法は、『自由への道』ほど急進的ではなかったが、これは、やはり、読者の理解を意識してのことだろう。もっとも、作者自身が、「その効果について責任を持つことはできない」と言っているように、『富豪刑事』の場合、十分に成功しているとは思われないが……)  最後に、『富豪刑事』に関して、どうしても言っておきたいことがある。  それは、作者は、これを純然たる作り物として書きながら、細部において、でたらめを書いていないということなのである。  例えば、『スティング』では誘拐事件が扱われているが、その際、警察には、ちゃんと捜査本部ができ、県警から、応援に来ている。刑事たちの動きにしても、簡略化はしてあるが、こうした事件において、本当の刑事がそうするであるように動いているのだ。  また例えば、 「ところで真田さん。われわれ刑事がエンジェル・ホテルの従業員に化けるとした場合、最低何人の人員が必要でしょうか」 「ホテルの専門用語でスケルトン・スタッフと呼んでおります最低の人員数は、収容客数の半分でございます。つまり収容客数三百八十人のわがエンジェル・ホテルの場合は百九十人ということになります」  とか、 「フロント、ロビー周辺にページ・ボーイが五人は必要です」と、真田がいった。「五人のうちのひとりがチーフで、これをヘッド・ボーイというのですが」  というような箇所を読むと、恐らく、これらは、でたらめを書いているのではないだろうと思わせる。そう言えば、たしか、筒井氏は「面白半分」に連載していた日記において、ホテルのことに関して、森村誠一氏に電話をかけた、というようなことを書いていたと思ったが、それは、この部分の取材だったのかもしれない。  いわゆる「現実的小説」でない場合は、中で扱われることが、多少、実際とは違っていても見逃される傾向がある。「こういう小説にこういう小説の読み方があり、あまり細かいことを言っては、やぼだ」ということなのかもしれない。  しかし、そのような小説では、読んでいるときは面白いが、読み終わると、索漠《さくばく》とした感じになるのをどうすることもできない。作者に、ペテンにかけられたという感じがするのだ。  筒井氏は、しかし、その安易な方法をとらなかった。大富豪の刑事という、実際には、ちょっと考えられない主人公(いや、案外、いるかもしれないが)を設定した以上、多少細部を適当に書いても、目くじらたてる読者はいないと思われるのだが、それらの点に関しても妥協はしていない。こうした丹念さが、『富豪刑事』の面白さに、より効果を上げているように思う。 [#地付き](光文社刊『新推理日記』収録、作家)    この作品は昭和五十三年五月新潮社より刊行された。